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斎藤由多加のブログだよ

Steve Jobsという人物とアップル

唐突だけど、ジョブスに関して書いた文章をアップしてみました。

実はこれ、某雑誌に依頼されて書いた原稿の原案でしす。最終的には、全面的に書き換えたので、この原稿は日の目を見ないままハードティスクの片隅にちょこんと鎮座していたのですが、なんだか可哀想に思えてきてて今日アップしてしまいした。

お暇でしたら読んでください、って感じです。

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「スティーブジョブスって人はもともとプログラマだったんでしょ?ちがうの?」という話しを耳にすることが多い。ジョブスは技術者ではない。最初に理想的な完成形をイメージし、それを技術者たちにつくらせるビジョナリーである。彼の委細の妥協を許さない「完璧主義」は、エンジニアたちを疲弊させてきたが、その製品は(すくなくとも外見とそのコンセプトにおいては)一分の隙もない完成度となって市場に出まわることになる。この方法論は、アップル創業以来徹底しておりジョブスが追放された時期のアップル製品の低迷を見ればその違いはあきらかである。

アッブルに戻ったあとの製品レビューにおいて、エンジニアがもってきた新製品の基盤をみて「基盤のレイアウトがうつくしくない」と否認した話しは有名である。エンジニアが「基盤なんて誰も見やしないよ」と反論したら「オレが見る」とつっぱねた。Nagraなどアナログ技術の逸品で目を肥やしてきたものだけがもつこういうセンスは、デジタル世代には、理解がいかないものかもしれない。

若き頃にジョブスが傾倒したインド仏教の影響もあってか、純粋主義であることも製品に大きく影響している。20xx年に発売されたiPhoneは、背面の鏡面加工デザイン性を貫くためだけにバッテリー交換を放棄したことは業界関係者を呆れ返らせた。業界の慣例や常識にまどわされず、この「あるべき理想型」をつらぬくこともジョブスの力である・・。

 

*********アップルの創業。

英国のクリスティーズのオークションに突如出展された、1976年製のマイコンボード。この、むき出しの一枚の基盤に、213600ドル値づけがされて落札された。

ディスプレイもキーボードもないこの基盤こそが、「二人のスティーブ」によって起業されたアップルコンピューターの最初の製品であることを誰もが知ってる。

200台ほど制作販売されたこの「アップル1」を手作りで作ったのは、当時ヒューレットパッカードに勤務し、ホテルのケーブルテレビに接続するセットトップボックスなどを担当していたエンジニア、スティーブン・ウォズニアック、通称ウォズが制作したものである。

この製品の販売を担当したのが、「二人のスティーブ」のもうひとり、スティーブ・ジョブスである。アップルの創業者のふたりのファーストネームがそろってスティーブだったため、互いを区別するために「ウォズ」、と「ジョブス」と呼れるようになる。

このアップル1を制作するのに必要な部品を購入するために、ウォズは愛用するHPのミニコンを、ジョブスは自分の愛車フォルクスワーゲンを手放すことになる。しかしよもやこれが本業になると当時ふたりは思っておらず、あくまで趣味としての活動だったが、販売先であるバイトショップの要請で、会社法人を設立することになる。社名は、果実主義であるジョブスが以前いたことのあるリンゴ農園から、「アッブル」と名付けられた。

アメリカ西海岸、いまではシリコンバレーと呼ばれる一帯では、マイコンボードがちょっとした勃興機にあった「マイコンブーム」の中心でもある「バイトショップ」にこの「アップル1」を販売委託したジョブスは、予想外の評判に、資金調達をしての本格的な操業を決意する。ジーンズにサンダルという、いわゆる「ヒッピー姿」のまま、みずからベンチャーキャピタリストを訪問し、これもまた奇妙な「金の卵エンジニア」、ウォズにHP社を退職して新会社に専念するよう説得する。

*********ジョブスのこだわり

 マッキントッシュという名前は、カナダ産のリンゴの品種名から来ている。未発表の新製品にはコードネームがつけられるのが通例だが、この「マッキントッシュ」の命名者は、音楽家でもあるアップルの社員ジェフラスキン。「理想的な家電コンピューター」のプロジェクトとして始めたものだった。

だが、このプロジェクトを乗っ取って、名前だけを残しそれ以外のすべてを「自分の理想とするコンピューター」へと変貌させてしまったのは、ジョブスだった。

********ゼロックスパロアルト研究所PARC

ゼロックスのパロアルト研究所で、後にパーソナルコンピューターの父としいて知られることになるアラン・ケイ博士らを始めとする科学者らが実験的につくったのが、ALTOと呼ばれるミニコンピューターだった。

ニコンピューターという名称は、当時遠隔からタイムシェアリングで利用される「大型コンピューター」の小型版という意味が込められていたが、「パーソナル」にまで廉価に至ってはおらず企業や研究所が所有できるレベルのものを指していた。

このALTOは、試作品とはいえ、マウス操作、アイコンインターフェイスなどを備えた、いわば今のパソコンの原型をほぼすべて備えた芸術的な発明品だったが、ゼロックス自身が商品化をしなかった。200台(?)ほどつくられたこの試作品の一代はホワイトハウスに納品されたことでその存在を業界に知らしめた。

当時、アップルというベンチャー企業の株主でもあったゼロックスは、アップルというベンチャーのエンジニアがこの「名品」の試作品を見学したいという打診をなぜか受け入れた。そして、スティーブ・ジョブスや後にアッブルの名誉科学者となるビル・アトキンソンをはじめとする「盗人チーム」の天才エンジニアらは、ここで見たデモに衝撃を受け、マッキントッシュの最終形をマウスとアイコン操作とすることが決定された。

*******トースターのような家電製品

ジョブスが理想したアップルの新型コンピューターの姿、それは、すべてが一つのボディーにまとめれたシンプルで美しいワンボックスコンピューターだった。ユーザーが裏蓋をあけたり、ボードをとりつける必要などのない、家電店で売られ、専門知識のない「普通の人々」向けのトースターのようなコンピューターだった。

********ジョブスのリーダーシップ

「海賊チーム」は、アップルが孤立した部署だった。ジョブスが許したものしか出入りすることができず、どんなものが作られているのか社内の誰にもわからなかった。たった6名の社員の手で、そのほとんどが開発されるという驚異的な作業は、後に伝説となり、関係者をスーパースター化すこととなった。

自分が革命者であるかのような言動をすることで、周囲の協力者を煽動するのがジョブス流のやり方だった。自分がカリスマとなることで、願望が実現できるまでエンジニアを酷使する。その仮想敵としてしばしば使われたのが「コンピューター界の巨人」IBMである。

後発のIBMIBM/PCを発売したときは、ウォールストリートジャーナルに、「IBMさん、ようこそ、私たちが作った市場へ」という皮肉に満ちた全面広告を打ち、世の中の注目を集めた。

********ジョブスとディールを結んだ最初の日本人

日本を代表する合繊メーカー東レの研究所の研究員、水島敏雄が、理化学分析のために、さまざまなセンサーと相性のいいコンピューターを求めてサンフランシスコで開催された「第一回ウエストコースとコンピュターフェア」を訪れたのが1977年のことだった。

水島は東レを退職し、ESDラボラトリーというマンションカンパニーを設立し理化学分析機器の開発を行う若きエンジニアだった。

当時はボードマイコンしか存在しないコンピューターの黎明期だが、それだけに西海岸で起きている手作りコンピューターブームの動向は技術者の注目を集めていた。水島が自費で訪れたこのフェアの会場にて遭遇したのが、初デビューしたばかりのアップルIIだった。社員が数名しかいない無名のアップルのブースで新製品のデモを行っていたのは24(?)才の副社長、スティーブ・ジョブス自身だった。水島は「すべてのエンジニアに開かれたオープン設計のI/O」に惹かれ、日本の輸入代理店を申し出る。

********アッブルの日本の総代理店は合繊メーカー「東レ

水島は湯島の雑居ビルの店舗スペースで「アップルII」の販売を始める。製品も評判も上々のアップルの伝道者として「総輸入元」を打診するも、急成長を遂げるアップルの成長に資本力がおいつかず、古巣の東レに、その総代理店の提案をおこなう。

この時期の東レは、構造不況からの活路を見出すために脱繊維を図ってやっきになっている最中だった。磁気テープやフロッピーなどのハイテク素材へでのイニシャティブを手に入れるために、この「青い目をしたパソコン」の輸入を決定する。

日本は、NECPC98が時代をつくる直前、これはつまりアップルも、そして東レも、互いに過度な期待を寄せたままの「見きり発車結婚」がこのとき成立してしまったのである。

*******ジョブスの解雇

ジョブスの解雇は、アップル信者たちには賛否両論だった。アップルユーザーと言えば已然として「アップルII」のユーザーを意味していた一方で、マッキントッシュという製品ラインはアップルを潰すと考える関係者も多かった。秋葉原で大々的に売られるPC98が帝国を築いていた日本では、アップルというプランドの認知度がまるで低く、今のようにジョブスの動向がいちいちニュースになることはなかったが、米国では、No jobs(もうおまえに仕事はない!)といった揶揄があちこちのマニアらによるBBS系ネット(この時期まだインターネットはない)に書き込まれた辞任劇だった。

********Windowsの台頭とジョブスの復帰

“問題児”ジョブスを追い出した公開企業「アップルコンピュター」を率いたのは、ペプシコーラーの社長からヘッドハントされた典型的な優等生のCEOジョン・スカリーだった。ジョブスの遺産であるマッキントッシュは、「CD-ROMとマルチメディア」というコンピューター業界を訪れた追い風に乗ってすこしづつ離陸を開始していた。スカリーは時代の寵児のようにメディアに登場し、コンピューターと教育、エンタテイメントの融合をアピールし始めた。ビジネス用途では無意味と思われていた「音が出る」「グラフィック性能が強い」「マウスとアイコンによるフレンドリーなインターフェイス」といったマック独自の機能が市場となりはじめたのである。

しかし、この時期から10年間にわたってアップルは迷走の時代に突入することになる。

*******迷走の時代

アップルが西海岸のサードパーティーらとこつこつと切り開いてきたマルチメディア市場の開花を予期していた宿敵マイクロソフトは、事業の主力であるOS製品をテキストベースのDOSから周到に用意していたマックに酷似したOS「Windows」へと舵を切り替えた。Windowsは、マックが作り上げてきたGUIの代名詞をいつのまにか引き継いでしまったのである。

ウリをなくしたマックは、市場では存在意義をうしない、アップルのCEOはクビのすげ替えのバトンリレー状態になる。

日本の内閣のように日替わりでリーダーが変わるようになると官僚は言うことを聞かなくなる。

リーダー不在のアップル社内も、信者に近い古参社員たちが手に負えない硬直化した組織を形成しはじめていた。にっちもさっちもいかなくないダッチロール状態のアップルに必要なカンフル剤は何か?その答えとして「もう一度ジョブスを招いてはどうか?」と発想したのは、つまり封印されたパンドラの箱を開いたのは、ゼネラルエレクトリックから来た最後のサラリーマンCEO、ギル・アメリオだった。

******ジョブス復活

ジョブスがアップルに戻ったというニュースが電撃的にインターネットを駆け巡ったのはクリスマスも近い1996年12月のことである。

ジョブスは、自分がアップルを追放されたのとまったくおなじやり方をつかってCEOのアメリオをアップルから追い出した。

そして、暫定CEOという奇妙な肩書きを名乗りながら、あるいは年間たった1ドルという役員報酬を見せつけながら、こり固まったアップルの風土変革に取り組み始める。

 

*******捨て去る力

パソコンはすでにカラーがあたりまえになっていた時代に、「神のようにクっきり表示させる」ために、マッキントッシュはモノクロモニターを搭載していた。

日本での広告は、横山大観らの水墨画が用いられ、ジョブスの禅思想とあいまって独特の世界観を醸し出した。

「シンブルであることが最大の美」というジョブスの哲学は、広告デザインからインターフェイス、パッケージにいたるまで、全世界に徹底されている。

たったひとつ、かつてのジョブスと違うことがあるとすれば、すでにアップルは巨大な力となってしまったことだ。巨悪に挑む革命家だった時代はとうに過ぎ去り、1984に登場する「世界を支配する権力」に、ジョブス自身がなりはじめていまっていることだろう。しかし、いまのジョブスは、そしてアップル製品は、低迷することなく、カリスマ性も失っていない。ジョブスが健康状態を維持し、その哲学を発揮している限りは、その駆動力は失われることがないだろう。