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斎藤由多加のブログだよ

ゲームのスコア

僕たちは、何をするにも、「スコア」を頭の中に思い描いている、と思う。

仕事で無理してがんばれているのも、渋滞で車を運転し続けていられるのも、クラブ活動のきつい朝錬を続けられるのも、みなそこに「スコア」があるから、である。

人によってこのスコアがすこしづつ違うし、そうであるべきだ。これが現実であり、ゲームとの違いである。誰もが同一のスコアを目指している状態というのは、見ていてあきらかに不健全であるし、まさに「ゲーム的」と形容される。人はみな自分なりのスコアをもっているから世の中は成り立っていられるのかもしれない。

そんな「自分だけのスコア」、ってのは、どうやら年代とともに変化するもののようだ。
テトリスの攻略のしかたが年齢によって変化するのと同じである。(かつての僕は一発逆転をねらうのがテトリスの楽しみだった。最近は「継続」である)

人を動かすこの「スコア」が、何かの拍子に、がらっと変わってしまうと、人は一瞬、行き場を失い、そして行き先を変える行動に出るものだ。「スコア」というのはそれくらい人間の行動を変える力を持っている。

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出張中のホテルで、全米ポーカーチャンピオン大会なるものを中継で見た。
全米を勝ち抜いてきた強者達がラスベガスに結集し、トーナメント形式で賭けポーカーを競うのである。
この大会のスコアは、つまりそこにかけられているのは、当然ながら本物のお金である。いうまでもなく、このお金は主催者が用意した類のものではなく、自分の私財である。賭けられているものが自分の私財でなかったら、この大会で試されるものはまったく違うものになってしまう。

だから大会は真剣そのものである。テレビカメラとて邪魔は許されない。

この番組をホテルで眺めていたときに、大変なことを発見した。
賭けポーカーというのは、ポーカーとは違うゲームである、ということを。

ポーカーは持ち札が強い者が必ず勝つ。しかし賭けポーカーはそうではない。時として弱い手の者でも勝つことができる。いわゆるハッタリ、である。掛け金を吊り上げてゆくことで、恐怖心が生まれ、心が弱い者は脱落してゆく。 だから、そこに、「読みあい」という名の駆け引きが出現する。カードの手札はあくまで二次的な材料であり、フロントにあるものは「プレイヤーの性格」である。

つまりおなじゲームのようでありながら、ポーカーと賭けポーカーはまったく異なるゲームとして存在する。その違いは「スコアリング」の違いである。この違いは人を夢中にさせ、そして破滅させる力を持った麻薬性の有無へとつながる。

このエネルギーの源泉は、何か?
それは、カードの材質でもなければ、テーブルの品質でもない。
人間の精神的強弱の競い合いである。そのふちの向こうには地獄がぱっくりと口を開けて待っている。そこに落ちないように自分の運命をコントロールする技を、人は競い合う。

単なる運試しのゲームが、スコアをすこし変えただけで、実力を試すものに変貌するのである。

ゲームショー2006ではたくさんのゲーム機とタイトルが発表された。
しかし、これからゲームクリエーターが社会から試されるのは、カードの材質でもなければ、テーブルの品質でもない。