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斎藤由多加のブログだよ

はしとそばとヌードルとスプーン(ゲームインターフェイス論2)

はしを使って食文化を築いてきた東洋人は、スープを器から直接"すする"習慣がある。西洋人からみると、これはとても野蛮な食べ方だという。音がするし、だいいち犬のように見える、という。

しかし、それはスプーンとナイフから見た価値観の話であって、では「そば」を、音を立てずに、あるいは器に口をつけずに食せ、といわれても、これほどぶざまで困難なものはない。スプーンとフォークでそばを食べろ、といわれても、それはまとも食べられない。趣がないのではなく、うまくたべることができない。なぜならば、そもそもそばというのは箸で食べるものとしてデザインされてきたものだから。箸の観点でみれば、「そば」ほど合理的で洗練された食はないという話である。

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ヌードルという英語があって、これは「麺」という意味に訳されると紹介されているけれど、実際のところ英米でヌードルとはスプーンですくって食すものを指す。スプーンですくってたべる食事はどうなるかというと、おのずとスープの仲間と認識され、ヌードルはその添え物という存在にかわってくる。スプーンでは箸のように直接麺をつまみ上げることが出来ないから、あたりまえの結果である。そうなるとヌードルというのは、麺の浮いたスープという意味のものになってくるのも必然である。

同じような形態の食でも、箸を使う人々にとっては固形物である「麺」が、スプーンだと液体の「スープ」が、おのずとその主役となって完成された結果だと思う。

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麺の例にとどまらず、欧米では、食べ物はカットされない状態で出てくるメニューが多い。和食では刺身のように切られて出てくるわけだが、これもナイフ・フォークと箸の違いによるものであると思われる。ミンチ肉によるハンバーガーがウケたのはナイフがなくても手だけで食べられる肉が好都合だったからにちがいない。

つまり、食文化は、実は道具と緻密にシンクロして完成されてきたわけである。

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話はゲームに移る。
これまでのゲームは、従来型のコントローラ、たとえるならばナイフとフォークだけで発展してきた。そうして生まれてきた食事を「箸」で食っても美味い筈がない。ナイフとフォークでたべるようデザインされたものをわざわざ「箸」で食って美味くなる理由が見当たらないのである。

同様に、wiiコントローラーという新種の道具の登場でうまれてくるゲームタイトルといのうは、これまでのものとは異なる食文化でなければならない。ステーキをナイフで切って食するダイナミズムの模倣ではなく、箸でつまみあげる洗練へとコンセプトを移行させなければ意味がない。

そうすることによってのみ、あたらしい食というのは出現するのであっておそらくは、格闘ゲームも、アドベンチャーも、ただ方向とコマンドを選択するものから、世界観の中に「分け入る」とか「かきわける」といった動作に変わってゆくべきである。それによってもたらされる味は、外見が似ていてもまったくことなる食であるばすなのだから。

ヌードル、とそば、はまったく異なる対象物を指す、という事実は、いわれてみれば当たり前の話であっても、ひとつまちがえると認識されないまま義務教育の教科書に平然と載っていたりする。

それと同様にゲーム業界においても、ユーザー以前にクリエーターまでがそれらを顕在的に認識して取り組むことをせずすべてただの置き換えの発想で済ましてしまうとしたら、世界はヌードルとそばを混同したまま食べ続けるという、暗黒の世界に留まることを意味してしまうにちがいない。

某タイトルをwiiに置き換える作業を外部の開発会社に委託している。
音声によるコマンドをジェスチャーで置き換える、という試みであるが、そのコマンド群をいっさい変化させず、ただ入力方法を置き換える形でいこうという理解があったので、意義を唱えたが、まだあまり理解されないまま進んでいる。

僕の主張していることは、「意味不明のたわごと」のように受け取られているけらいがあって、ちっょとした寂しさを感じている。

「ハードとソフトはともに発展し伸びてゆくものだ」そういうセリフを得意げにスピーチで口にする業界人たちの、話して何割が、この事実に気付いてタイトルを開発しているというのだろうか?

ゲーム業界の行く末は、まだ、決して明るくない。