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斎藤由多加のブログだよ

失恋市場

雑誌の創刊の現場に居合わせたことが幾度かある。

素人からすると、雑誌ってのは「どんな特集記事が載っているか」、とか、「どんな作家が書いているか」、なんてことで評価するわけだけど、業界側からすると読者は「人口」や「マーケット」あるいは「層(ターゲット)」などという言葉に勝手に置き換えられる。出版側と読者というのは、まるで反対側にいて、みている風景がまったく異なるのである。たとえるならば、ステージ上のアーチストと観客、のようなものである。観客の一人ひとりは自分の姿がステージからどう見えているか、なんてまるで意識しない。自分はあくまで自己の都合で振舞っているにすぎない。でもステージの上からだと、おおきな流れのひとつにしか見えない。そう、自分にとっては「個性」でも、業界からすると、流行の断片、なのである。

雑誌の数っていうのは、そこに属する人の人口に比例して出ているのだ、ということがようやく理解できるようになってきた。いわゆるコミュニティー人口って言うか・・・。こんなことをかんがえるようになった自分というのは、もしかしたら、経営者的な視点になってきたということだろうか?だとしたら、すこしうれしいし、すこし寂しいことだ。ま、そんなことはどうでもいいが・・。

つまりね、「ちょいわるオヤジ」でも、「ライカマニア」でも、あるいは「ホモセクシュアルの人」でもさ、なんでもいいからそのコミュニティーに人口が一定数いれば、雑誌が創刊される。世の中そういう仕組み、というわけである。

コミュニティーという言葉。よくアメリカ映画を見ていると、同じ悩みを持つ人たちがどこかの会館に集まって自分のケースを発表しあう、という場面が登場する、あれである。
ドラッグとか、治療法がない難病とか、なにかの中毒とか、失恋などには解決方法がとくに存在しない。特効薬というものが存在しないからそれを解決したいという人が集って情報交換をする。それがコミュニティーだ。コミュニティー人口が会合,会報を経て雑誌になる。

失恋、というのが顕在化していない大きなコミュニティーである、あまり語られてはいないが・・。
携帯シーマンというサービスがあるのだけれど、そこに寄せられる相談の数はおびただしい。そしてそのほとんどが「失恋」ないしはそれに類似するものだから。

だからそのうち、「失恋雑誌」なるものが出るのではないか、という気がするのである。

とおもっていたら、北海道でみかけた写真の「禁酒会館」を見て、「会館という手もあるな」ということに気づいたのである。(どうやらここはキリスト教会によって運営されているように見えた)

日本はこれまで物質主義の国だった。電気会館、とか、通信XX会館、とかそういう商業的コミュニティーによる建造物は多々ある。だがメンタルなことに寄与しようというスポンサー企業はそうそういない。
でもこの失恋人口の多さからすると、「失恋会館」なる場所をつくる団体があってもよさそうにおもう。できたら連日大賑わいになること必至だと本気でおもう。そこで日々何が話されるかはわからないけどね。

でも、それがいつの日か、「失恋市場」となってゆくのかもしれない。