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斎藤由多加のブログだよ

日本語について

今日は連載再開の件で毎日新聞さんをおとずれた。明日は、午後から幻冬舎さんと単行本の打ち合わせ。すこし毎日に余裕が戻ってきて、自分を立て直す意味でも、「文字の世界」にすこし戻りたいと思っているのかも知れない。

文字を書くというのは、なかなかやりがいがある仕事で、僕は好きなのである。だからいろいろと引き受けてしまう。いや、提案してしまう。

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シーマンというゲームをてがけるようになってから、「ことば」にすごくうるさくなった、と自分でも思う。

僕がはじめて物書きを始めたのは、27歳か28歳のことだ。
サラリーマンをしながらマックの雑誌に連載をはじめた頃。

自分の書いたものが印刷された最初の号が届いたときは、緊張で身が震えたものだ。
女性が美しくなるのと同じで、自分の文章がたくさんの人の目に触れるようになると、完成度にこだわるようになる。

やがでその媒体はすごしづつ新聞のコラムだのAERAだのDIMEだのといったメジャーな雑誌に移り、やがては単行本などを出すようになっていった。かつては憧れたような雑誌に原稿を依頼されても、いまではあまり緊張せずにささと書いてしまう自分がある。それは自分がまともになったからだ、とついぞ思いがちだけど、実は逆に不安になることがある。最近いちばんその不安を感じたのが、シーマン2の仕事をしているときであった。

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シーマンということばあそびのゲーム、ことば表現の作品としてよくよく考えればじつに大仕事である。

シーマンという"媒体"、これは雑誌でもラジオでもない、新種の発話する膨大のセリフの集合構造体である。そこに、音声認識やら、分岐やら、DB参照やらと、一見複雑なな枠組みがはいっているが、仕組みはどうであれ、結果としてことばで表現する、という点では詩の朗読とおなじである。

この仕事をしているとプログラムという工業技術にまぎれて自分の文章のスタイルが安定しないまま、分不相応なステージにまで来てしまっているのではないかと不安になることがある。開発チームには、ことばを専門とする人間がひとりもいないので、僕はプログラマーという集団の中での異分子のように孤立して悩むことになる。

コンピューター業界の人間というのは、ことばに無関心だ。
ことばというのは曖昧さをふんだんに内包した、あくまで暫定的な伝達手法であって、それらを排除した数学的なコミュニケーション言語はプログラムコードしかない、と思っているふしも多少はある。だが、コード表現においてけっして秀逸とはいえない若手ですら、ことばをとても邪険に扱いがちだから、ときどき、安じてしまう。

「痛快の一撃!! 相手に深刻なダメージをあたえた」といった、お約束の文章に近ければすべていいと思っているのかもしれない。
だから開発チームが書いたプログラム内メッセージも結局、直してもらうことになる。

マニュアルやチラシのちょっとした文章であっても、いいかげんなものを見ると、すぐに正したくなる。そんな自分は、どんどんと頑固者になっているのかな、とふと我を振り返ることがある。

そんなときには、「ことば」に固執している表現者と出会いたくなる。ライターではなくて、表現者、と。

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今日ようやく、先日買った佐野元春のCafeBohemiaのボックスを開いた。
ジャケットのモノクロ写真がかっこよくて、衝動買いしたものだ。
佐野元春といえば、懐メロ的だけど、歌詞が「詩」であることをあきらめずに楽曲創作をしてきた人という印象がある。

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だから彼の詞は、日本の無垢でつくられた家具のように、重くて堅い。意味不明の幼稚な英語でごまかさずに、いちいち意味がある。聞いてあらためてなかなか良かった。

ボックスに付属のDVDを見ていて、アレン・ギンズバーグの話が出てきた。ギンズバーグはアメリカの詩人で、ビートニクス世代の象徴。公民権運動が盛んだった頃には、ことばの力をしんじて詩を詠みながらあちこちを行脚していた人だ。

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詩というのは、少ない文字数で、相手に解釈させて完成させる余地をどれだけ持たせられるか、にその力があるとおもう。相手が参加して完成させるという点で、説明過多な文章よりもよっぽど説得力がある。ビデオに対するインタラクティブのあり方と似ている。

「そいつ、まじムカついた」
「そーなんだ」
「だってむかつかない?」
「微妙・・」
「うそ!?なんで?」
「だっていちいちむかついてたらうざくならない?」
「ならない。っていうかふつー。」
「まじ?」

読んでも意味不明なこういうギャル会話ってのは、否定する貴兄が多いが、実は省略されているだけであって、日本語に無頓着だとはぜんぜんおもわないのである。口語とはそういうものだ。立派な先生の講演録を読んでも、口語というのは字にすると意味不明なものだ。ニュアンスで語るという点で、音楽に近い。

むしろ、"自分は日本語をマスターしている"、と誤認していて、実のところは人間が誤解なく理解可能な文をまったく書けない人間が多いのがゲーム業界である。文字で書かれる文章までが口語なのである。

相手が参加して完成する、というゲーム本来の姿が参加の余地を狭め映画に近くなる一方で、そこに表記される文章が逆に会話のように省略されてきている、という皮肉な状況。これは、業界関係者の表現力の低下であり、かつ品質の劣化である、と思う。