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斎藤由多加のブログだよ

鬱病の人へ

かなり欝ぎみである。なんとも心がボロキレのようである。
どかどかと心に入ってくる人とことば群。相手に悪気があるとかそういうものではない。事実、僕自身も過去に人の欝に拍車をかける原因となったことがある。

だが、心が悲痛をあげ、耐え難くなる状況はそれでも生まれる。
外に出るのも心が震える。人に会うのが怖くなる。
若いころからその気はあったのだが、年齢とともにひどくなった感がある。いや、あるいは仕事の重圧とともにだろう、たぶん・・。

子供のころ、北杜夫がよく躁鬱のことを自書に書いていたが、どんなことやらさっぱり想像がつかなかった。
大人になるにつれ、そういう機会が増えるようになった。
僕はもともと人嫌いだった。声もガタイも大きいので、誰も信じてくれないし、なんとなくリーダーっぽいことをやらされてきたので自分でも隠してきたところがある。
欝や対人過敏は恥ずかしいことである・・そんな教育を学校でも就職先でも受けてきたような気がする。
だから他人にそういえるようになったのはごく最近である。

アメリカに住んでいたころには、友人たちがごく自然に「今日はカウンセリングにいく日だから」と口にしていた。
「ふーん」くらいに思っていた。
いま、とてもそれを欲しているけど、日本はオープンではない国だとつくづく思う。へんなところにもいけないし・・いつもいきそびれる。
となると、「精神科」となる。医師免許を持つ先生と処方箋。
こんなもので心が直るわけがないとも思う。知人を見てても抗欝剤を飲んだって朦朧とするだけだ。
心は人の心でしか直らない。

「だからさ、日本じゃ、新興宗教がその役目を果たしているんだよ」
猪瀬さんがそういったのを聞いて「なるほど」と思ったことがある。

でもね、もうひとつ、もっと身近なもの、実は、「音楽など」がその役割を果たしてきた事に気づいた。
それからというもの、病まないまでも心底挫折した時など、どれだけ音楽に救われて来たことか・・と数えてみた。僕たちが音楽にここまで依存しているにはわけがあったんだなぁとつくづく思う。No Music, No Life、ではないけど。
つまりない処方より、音楽などにも保険医療が適用されてもいいのに、などと、ありえないことをよく思う。

「音楽など」、と書いたのは、ほかに、「映画」や「書籍」。
僕は、こういうときになると黒澤明手塚治虫の作品を開く。
創るということは命を削ることだ、と語っている人たち。
そういう人たちに、「どうしたらいいの?」と聞きたいけど、作品しか残っていないもん。あったこともないし。
だからブラックジャックをパラパラとめくりながらほかの仕事の合間を縫って連載していた手塚さんに思いをめぐらすしかない。

サラリーマンは楽だ、いや楽じゃない、という議論があるけど、両方経験している僕としては、なんともいいがたい。
そもそも人口密度過多、情報過多、時間密度過多、なせいではないかな?

心を持ってしまった人間は皮肉である。
山を乗り越えて人間であることとを謳歌できる日がはやく来るといいな、といまは子供のように思う。

まるで遺書だな、こりゃ。