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斎藤由多加のブログだよ

分解能力

別府の猿山のベテラン飼育係によれば、猿の鳴き声には、40もの種類があるという。そしてそれぞれにしっかりとした意味があるという。

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●猿の鳴き声はいくつある!?

この「40」という数字は、このベテランの飼育係の方の分解能力による成果である。
私たちではまったく区別のつかない音群が、ある日誰かが40という数字で定義できる、と発見すると、人類の識別能力は大きく前進する。それぞれに名前をつけることで、さらにそれは進む。それまで誰もが耳にしていた音が言語として再出現するからである。

世の中に混沌と存在する音をドレミファソラシドに半音をくわえた12の音色として定義した人は、かなり偉い。それ以外の音は、この12の音にオクターブ違い、としたことで、どんな音も数字のような桁上がり構造で記述できる。

そのおかげで、人間は音符をかくことが可能になった。バッハやモーツァルトといったテープレコーダーもない時代の中世の作曲家の作品をいまでも再現することができるのだから。

もうひとつ大きなことは、人が音を支配できるようになったことだ。弦を半分の長さにすれば1オクターブ高い音を確実に作り出すことが出来、そりによって人は「演奏」をすることができるようになったわけである。それまで受動的に接してきた音を、計算によってつくり出されるようになったのだから。

つまり言語化というのは、漠とした森羅万象を、特殊な才能なしで利用可能にすることを指すのだと思う。

たとえば猿の鳴き声が、ひとたび番号区分されると、聞き分けることの出来ない人でも、「ききわける訓練」を始めることが出来る。バイエルのレッスンのように、1年生は15番まで、2年生は30番まで、3年生は難易度の高い40番までを習得する、などというカリキュラムを組むことさえ可能だ。そうしながら未知なるものを克服することができる。それこそが人類の文明のプロセスそのものである。

一方で、「おれはそもそも鳴き声の違いを聞き分けるぜ」という人も、それまでは曖昧模糊としていた全体が40で構成されていると定義されれば、認識結果を記号化することができる。

音色や香り、雰囲気、といった情報は、そもそも明確に記憶することがむずかしい。その理由はひとえに記述言語がないからである。曖昧な印象というのは、文字通り吹けばかき消されてしまう。特殊な能力がない限り、それらを長期にわたって記憶し続けることはできない。番号としてならば、曖昧さが排除され情報を半永久的に記憶することができるわけだ。これこそがデジタル情報化の黎明である。

さて、この40という数字の信憑性はいかがなものか、という話がある。
人によっては30で事足りる、というかもしれないし、100はある、という人もいるかもしれない。

●いくつで切り取るか

猿の鳴き声をいくつの音で切り取るか、これは、音をいくつの音階で切り取るか、と同じようなことである。12よりもすくない数で定義すると雅楽のような音階になるし、アラジンの音楽みたいにアラビアンにもなる。これは正否、ではなく、特徴ということになる。重要なことは、それぞれの解釈が完結して閉じていることである。

あたらしい分野をゲーム化しようとすると、まず最初は、その世界を分解誌、識別番号をつけることからはじめなければならない。しかも、その番号は,トランプのカードと同様、有限でなければならない。その切り取り方はクリエーターに依存する。

獏とした現実を、いくつの区分で切り取るか、それが言語の特徴となるし、ゲームであればその特性を決定する。エスキモーの言語には「雪」に当たる言葉が数十あるという事実も、日本語では魚の名前が多いことも、あるいは英語には牛にあたる言葉が複数あることも、すべて同じ理由によるものだとおもう。

●記述の方法

猿の泣き声の例に戻って、さて、番号をふったはいいが、じっさいの泣き声をひらがなで記述しようとおもっても、おそらくすべて「キャー」「ギャー」のどちらかになってしまうことだろう。

ひらがなでは猿の音声を記述することはできないという話である。それくらい人間の言語というのは音に貧弱である。トランプでマージャンをしようと思っても牌の数がすくなすくでできない、のと似ている。

コレは、1が3で割り切れないのに、一つのケーキを三等分できるという矛盾と似て、言語の限界というやつだ。
言語というのは万能ではない。だからこそ、あたらしい分野に対しては、それにふさわしいあたらしい言語体系をつくりだす必要がある。

あたらしい分野のゲームに取り組もうとすると、いつも苦労するのはここである。
40という種類で定義し開発してきた「さるなきトークソフト」だが、ある日、さらにあたらしい鳴き音があることが判明した、という時の迷いとでもいいましょうか・・・。

そんな日を僕は、いや僕たちは、いま送っている。