YOOT.COM

斎藤由多加のブログだよ

〈第一回〉ゲームってなんだろう?

ゲームという表現


21世紀の現代においておそらく
ゲームに触れたことのない、
あるいは見たことのない人はいないでしょう。

昨今話題になりがちな
コンピューターゲームというのは、
本来、映画や小説とは違う手法で、
「伝えたい」
「表現したい」
というクリエーターの強い思いによって
作り出される芸術の分野です。
その手法はまちまちですが、
秀作や傑作のゲームは、映画や小説と同様、
私たちにとてつもない感動を与えてくれます。

かつて私たちの世代は
恋愛や人生の悩みに対するヒントを
音楽や映画や小説に見いだしてきました。
(ちなみに、私は1962年生まれです)
もしこういった作品がなかったら、
悩み多き年代に
道を誤ってきてしまったかもしれません。

ゲームも同じような存在になりつつあります。
(一部の「心ないテーマをあつかったタイトル」は
その限りではありませんが
このことについてはあらためて述べることにします)

世界中のたくさんの表現者たちは、
たいへんな時間とエネルギーを注いで、
学校の授業で教わることができないような
たくさんの人生のヒントを与えたいという
情熱をもって作品をつくっているのです。
ただ時間つぶしのためのものとしてではなく、
ゲームを作品という目でみてもらいたいのです。

第一回目は「ゲームってなんだろう?」
というテーマです。

ゲームの定義ってなに?

でも、「ゲーム」って本当はなに?
なんて聞かれてきちんと説明できる人は
なかなかいません。
この質問に答えるのはとても難しい事です。
音楽や映画や小説といった芸術表現の中で、
こと「ゲーム」はとびぬけて特殊な構造をしています。
日進月歩の技術革新や「おたく」なんて言葉が
ここに絡んでくるものだから、
さらに不可解に見えます。
3Dグラフィックであればゲームといえるのか?
いいえ、そうではありません。
ゲーム機で動くソフトだったらゲームといえるのか?
そういうこともありません。
ほかのどの表現手法よりも歴史が浅く、
未開拓な分野である「ゲーム」に対して、
一般の大人たちはどう関わっていったらいいのか、
あるいは才能あふれる異業種の人たちが
参入してみようにも、
さてなにからはじめたらいいのか、
誰もがこの不可解な分野には戸惑い気味です。

なにがどう特殊なのでしょうか?

普通のデジタルコンテンツとゲームソフトの違いは
一言でいうと何なのでしょうか?



「人生はゲームさ」
「恋愛をゲーム感覚でする人」
「これじゃまるでマネーゲームだ」
「ゲーム感覚で仕事をしている」

などなど、ゲームという言葉は
世の中のいろいろな喩えに用いられます。
人生、仕事、恋愛、お金、
どれもかなり大切なものばかりですね。
しかもどれもあまりいい意味で使われません。
ゲームというのは悪いことを指すのでしょうか?
果たしてゲームであることとは
どういうことを指すのでしょうか?

「ゲーム感覚 運試し」という新聞記事の見出し

「ゲーム」ということばは
今も意味深なニュアンスで使われることが多い。

「目的をひとつにしたかけひき」

ゲーム作りを志すひとに知っておいていただきたい
まず最初のことは、

「ゲームというのは、目的を共有した人同士が
 かけひきをすることではじまるもの」
 
ということです。
これはトランプから麻雀、野球にいたるまで、
すべてのゲームに共通していることです。
たとえばトランプのポーカー。
これはあらかじめ定められた役があって、
手札の強さはこれに従う、という同意があり
初めてゲームが成立します。

人によっては、
「ハートの方がスペードよりかわいいから上」
といった価値観があるでしょう。
そういった個々の価値観を放棄し
ルールが定めるゴールを目指してもらわないと
ゲームになりません。
この「同意」ということこそが
ゲームがゲームとして成立する大切な条件です。

しかし現実の社会はどうでしょうか?
人生の価値観や目的はけっして一つではありませんし、
一つであってはなりません。
人生や恋愛や仕事をゲームに例えた表現が
あまりいい意味合いとならないのは、
一つのことだけに価値をおく考えが
現実社会では偏ったものになるからです。

「お金だけに価値観をおいた人生」
「儲けることに執着した仕事をする人」
「勝った負けたで恋愛を語る人」

‥‥ひとつの価値観だけで
ものごとを押し進めようとすると、
こういう表現が使われてしまいます。
これが「ゲーム」であることと
「ゲーム的」であることの最大の違いです。

ゲームという「ことば」

ゲームというのはひとつの言語だと私は思っています。
言葉の通じない外国人同士でも
トランプを楽しむことができます。
すると不思議なことに、
言葉が通じないはずの相手の人柄が
手に取るようにわかってきます。
互いに目的を共有化したことで、
カードのやり取りが
言葉のような役割を果たはじめるのです。

以前に、将棋の名人と対談した時の話です。

「将棋といっても、よい対局、醜い対局、
 相手によっていろいろ変化する」

とその名人はいってました。
互いの優れたところを讃えあうすばらしい対局もあれば、
弱いところをつつき合う嫌な対局もあるそうです。
よいゲームというのは、
プレイヤーの個性が出るものです。
対戦相手も、またそれを観戦している人も同様で、
カードや駒の動きから
プレイヤーの思惑を深く読み取ることができます。
価値観を一つにしたときに、
限られた手札をめぐってかけひきがはじまり、
そこにそれぞれのプレイヤーの個性が表れる‥‥
これがゲームの楽しさなのです。
そしてこういった場をつくることこそが
ゲームクリエーターの職人芸というわけです。
ゲームを企業研修にとりいれたり、
学校の授業にとりいれているケースは
すくなくありません。
ゲームという手法が、ものごとの学習に
極めて高い効果をもつからです。
その理由は、時として言葉よりも明確に
ものごとの構造や因果関係を
理解させる効果があるからです。

世の中にあるコミュニケーションの方法は、
けっして「ことば」だけではありません。
よいゲームというのは、
文字やことばに代わる文法体系なのです。
ゲームという「ことば」によって、
ふだんは口べたな人でも、
実に流暢に、
誰かとあるいは何かとコミュニケートしている、
そんな風景を皆さんも見たことがあると思います。
ユーザーが能動的に関与できるという点で、
これこそが本や映画や音楽とは異なった
ゲームならではの特徴であり作品性なのです。
ゲーム手法というのは、まだまだ未開拓ですが、
21世紀型の、そして日本が世界にリードする、
あたらしいコミュニケーションの手法なのです。