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斎藤由多加のブログだよ

常識的問題

歴史の教科書から削除するべき、しないべき、という解釈で大きくもめている案件がある。

教科書にのせるということは、いずれ日本社会に出てくる人材の常識と社会通念を決定するという大きな意味があるのだろう。
学校教育(とくに義務教育)の議論というのは、そういう意味をもっている。

でも、じゃ教科書に載せたところで、どこまで若者たちは常識的な知識として身につけて大人になっていくのだろう?
義務教育課程に含まれているレベルの知識だから、当然備えているものだ、と思っていると、とんでもないことになる現場が多い。

そんなことがあまりに多いせいで、今日のニュースを聞き、そして考え込んでしまった次第である。

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かつて社内のクリスマスカードをつくった。
いつも付き合いのある外部のデザイナーにスタッフがデザインを発注し、そして印刷され社内に積み上げられたクリスマスカード。そこには、「MARRY CHRISTMAS」と大きくかかれていた。

「おい、これじゃ、"結婚"クリスマスだよ」と思わず叫んだ。あわてて印刷し直しとなった。
クリスマス直前に会社に届いた第二版は、「MERRY CHRISTMAS」と綴りは直っていたが、略地図にて目印となるWendy's(ウェンディーズ)というハンバーガーショップがWednesday(ウェンズデー=水曜日)となっていた。さすがに時間がないので、そのまま出した。

その一年前、おなじスタッフたちの手によるクリスマスカードが納品されたのは、クリスマス当日だった。
「あれだけ事前に確認したのに、どうしてクリスマス当日にクリスマスカードの印刷が納品になるんだ? 相手に届くのはクリスマス後じゃないか」
そういったら
「"メリークリスマス&ハッピーニューイヤー"とあるから、正月までに送れればいいものかと思って」とスタッフはいう。

「私は英語は専門じゃないので、責任を問われても困る」
チェックも含めてそれが関係者たちの言い分である。

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日本人は、義務教育で3年、高等教育まで含めると6年、大学卒では8年の英語教育を受けていることになっている。(僕の中学生時代には週に4時間の英語の授業があった。)
国外から見た一般的な理解は、「そこまで義務教育が施されている日本人は英語が使えるはず」という国である。そう、ハワイやグアムやシンガポールがそうであるように。

それを前提としていいならば、この例のようにごく一般的な英語の読み書きは日本人社会人の常識としての技能として問うてもいいこと、となる。Merry Christmasというつづりが出来ないことは、あるいはそれを辞書で確認する技能がないということは、義務教育で学んだ能力を備えていないということになる。

しかし本当にそう捉えていいものなのだろうか?
だとしたら現実における日本人は前提技能が破綻していることになる。

かつてTowerのローカライズをしていたときに、とあるプログラマーはホテルのスイートルームをSweet Room(甘い部屋)とかたくなに信じてタイプしていた。そういうミスが発生する、つまり複数名がチェックしたにもかかわらず指摘されない組織は「特殊」となってしまうわけだ。

教科書に載せる載せない、と真剣に議論している人々のエネルギーは、学校教育のレベルとか、学生の意識の前で、虚しく風化してしまう気がする。

大きな、重要な、仕事をする上で、僕たちはどこまでのことを基本的に備えているべき常識としてスタッフに期待していいのだろうか?そんなことを考えてしまうのである。

Nair

△おそらくNailとしたかったのだろう(麻布十番のエステショップの看板)(7月2日追加掲載)