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斎藤由多加のブログだよ

芸術は「選択だ!」

今日は新作タイトルのテレビCMMAだった。
超低予算で
CMをつくるのはしんどいけど、タレント不在な分企画に依存することになるのでプランナーとしては試されるようで楽しい。

出来は「満足」です。スタッフに感謝である。

スタジオ作業の待ち時間を利用してCGを制作してくれたT氏とともにMAルームを抜け出した。僕はR-D1を、T氏はロシアのアナログカメラを、それぞれ片手に赤坂見附の街を撮りまくった。ここのところT氏とは、カメラ談義で盛り上がっている。いまの僕の目標は、T氏に本格的なカメラを買わすことだ。

そういえば18日の土曜に、NHK木村伊兵衛氏の特集をやっていた。いかに被写体に警戒されないように近づくか。以下にその場の空気となって自然な場を引き出すか、というテーマである。映画監督が演出家だとすれば、写真家は非演出家ということだろうかねぇ・・。

スタジオで進行しているCM映像ではすべてが作りこまれたCGだ、と思うと不思議な気分になる。自分がカメラでぱちぱちと撮っているのはすべて偶発的にそこに発生している風景にすぎないんだから。

そもそも風景というのは自分のコントロール外にあるものだ。だから風景と呼ぶのだろう。それを撮影して「作品」と呼んでしまうのは、つまり、その風景の作者となってしてしまうのはどういうことを意味するだろうか?なんてね。人工物をつくっている者としては、まるで偶然の産物を自分の産物にしてしまっている気がしないでもない。

この話を過去にH氏にしたことがある。

「いや、その光景を選んだ、という最大の行為があるのだ」

という文句を放った氏は、プロのジャーナリストである。

選曲家という職業がある。曲は第三者の作品であって選曲家はそこに何も介在してはいない。でも数ある中から特定の曲を選ぶことで自己表現が可能である。

過去から膨大な曲数が存在する世の中である。わざわざユニークな曲を書くことよりも、すでにある曲を組み合わせることの方が多彩な表現ができる気がしなくもない。ただし、「表現」となるためにはその対象が無数にある場合に限られるように思うのたがね。

一方で、ゲームというのは、トランプでもマージャンでも牌の数は既知でかつ有限である。それらを組み合わせたって「役」にはなっても「表現」にはならないわけで、やはり表現というのは無数とか無限でなければ、選ぶ行為の意味が薄れるわけだ。

そんなことを考えながらMAは無事終了し車を走らせていたら、車窓の外に、うららかな日差しの中で戯れる見事なまでの親子の姿をみかけた。とっさにカメラを出そうとした2秒ほどの間に、その決定的な瞬間はもう失せていた。

「きっと名作がとれていたな」と、その残像だけが自分のあたまの中を巡る中、思った。「目の中にカメラがあればいいのに」そう思った。しかもハードディスクのおっかけ再生機能のように、すでに録画されている、というのがいいな、とも思った。
もしこの瞬間を切り取ることに成功し、この親子の姿が名作として世に出たとしたら
?この写真の作者は、僕ということになるのだろうか?いやむしろこの親子自身がこの幸せな風景の一番の作者ではないのだろうか?

音楽は12個の音符で、シェイクスピア26のアルファベットで表現されている。100×100ドットの順列組み合わせでできた写真の中には、モナリザからマリオまですべてをこの組み合わせのひとつとして含んである。ということは、写真もCGも選択なのかな?

表現というのは「作る」といいながら、実は膨大な組み合わせの中から何かを「選びとる」ことを意味するのかもしれない。