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斎藤由多加のブログだよ

隠れた天才

連休のテレビ特番で、おりがみの職人技を紹介していた。
一枚の紙で五段重ねの折り鶴をつくってしまう、といった類の技である。

以前にもおりがみ選手権で勝ち抜いてきた人たちが登場する番組をみたことがある。頭がいいなぁとつくづく思った。いや、頭がいい、ではなくて「天才」である。

作り方を説明されると、「なるほどねぇ!」となるわけですが、もし自分がなにかあたらしいおりがみ作品を「つくってみろ」といわれたら、鬱を通りこえて発狂してしまうのではないか、と思ってしまう。それくらい複雑な高度な発想だと思う。

これってかなり頭脳がよくないとできないことです。学問的にいうと、どの分野になるんだろ?3Dだから数IIIかな?
娘の受験でサイコロの目が見えない面の合計を求めよ、ってのがあったから、算数の延長なのだろうか? いやいや、あの手の問題ってさ、計算式が存在しないからさ、直観力と構成力でしかなし得ないのではないかな。つまり学問ではなくて特殊な人間の能力ではないだろうか? 学問ってのは、誰かが発想した方法論を習得することだもん。

実は、同じような感動を、デジカメとか携帯電話のダンボールをバラしている時に感じるのである。外箱と中の仕切り関係がたった一枚の板で組まれていること、気づいた方いますよね? かくいう僕も資源ゴミのコーナーで解体しながら、「ほぉー」といつもながらに感心してしまう。そのうち、どこどこの外箱は芸術点が高い、などと資源ゴミコーナーでの作業がちょっとした楽しみになってきているわけです。


↑デジカメの中仕切り。これも一枚のダンボールでできた作品

外箱なんてものはさ、ただ捨てられる運命の、いわばコストに過ぎないパーツだからメーカーとしてもなるだけ面どりを一枚ですませたいという哲学があってのノウハウだろう。

だが心配なのはこういう芸術的なデザインをする部署の人々までが、コストとして扱われてはしないか、ということである。

おりがみの日本代表みたいな天才の人が大手企業に就職してその天賦の才をこういう資源対応に発揮していたとして、結局彼の待遇までコストダウンの対象になってしまっていたとしたら・・・せっかくの天賦の才があまりに悲しい。

実はここのところ、アメリカの大学と日本の大学の違いを調べていたのでちと触れます。

アメリカ企業と付き合っているとね、いわゆるキャリアっていう人がはっきりとしているのですけど、彼らのほとんどが大学院出身者で、ただの大学卒はアメリカ企業社会ではともすると下っ端みたいな扱いを受けているのを多く目にするのです・・。

だって具合のよくない時期のアップルですら、マネージャー職はみんな院を卒業しているのです。大学卒だけじゃキャリア足りないよ、とでもいわんばかりにね。でも仕事をしていて、さほどレベルが高いとは思えない。日本の大学院を出た人って、学者にちかいからね。

でも彼らからすると東京大学法学部卒、が、「なんだ、ただの大卒か。」なわけですが、日本人からみると、「スタンフォードのマスターがそんなに凄いのかね!?」と思いたくなってしまう、東大がすごい、といつも思っているわけではないのだけれど・・。

で、興味をもって調べていたら日本の戦後教育の制度づくりにこの二つの国のプロトコルのバグ原因があることがわかってきたわけです。いうまでもなく6-3-3制ってのはアメリカにならったもので、それまでの旧制中学や旧制高校はヨーロッパ型。

でアメリカは大学院はそもそも大学から独立した施設としてつくられたものであるのに対して、日本は議論に決着がつかないまま、国からのたいした助成金がつかず4年教育大学の付随機関としてのスタートとなってしまったそうな。

だから、アメリカの大学で学ぶ4年間というのは、いわば大学院の専門に対しての教養課程に近いものだそうです。教養といっても4年間あるからには徹底していて、討議とか(ディベートってやつですね)自然科学とか、きっちりと分野が確定されていて、少人数でやる。しかも飛び級があるからがんばればはやく大学院に進める。(大学院はGraduate Schoolっていいます)

日本はその教養を前半の二年間で、専門を後半の二年間でやっている。短期間でやるからどうしても中途半端になる。で卒業したら、「大卒」。

飛び級がないから、大学を卒業して22才、そこからさらに専門を学ぼうとすると、さらなる年月を学費の高い大学院ということになるわけで、結果、日本は大卒に溢れたという次第のようです。

じゃ、そもそも大学って何だ、という話になるわけだが、本来の義務教育やその後の高等教育とは異ならなければ意味がない。本来の意味はさ、生徒と講師が対等に学ぶ大人のための機関、である。

つまり義務教育が決められた分野の勉強に費やされるとするならば、大学っていうところは、分野になっていない未分化の分野を開拓したり、特殊な才能を見出して「おりがみつき」にするところではないか。

しかし日本の大学ってのは高等教育の延長になってしまっているもんだから、たとえばおりがみの才能をもった天才たちは、日本の大学を出たとしても、その才能は趣味の延長としてしか扱われず、開花しないまま、となってしまうのではないか・・・・と。

一枚の紙を駆使して立体を造形できる才能・・・。この貴重な才能を国家の財産としていかせる国にしたいものだ、と思った僕に、そんな力があるわけでもなく、だったら大学のゲームを作ってみようと密かに思うのであった・・・。