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斎藤由多加のブログだよ

秋の蝶

秋晴れの昨日は、午前中に二人の知人を病院に見舞った。

一人は亡き母の古き友人で、後に従兄弟の継母となってくれた方。
美しい方だっただけに人工呼吸器をつながけた姿は痛々しい。
意識はないが、実は聞こえているものだ、という妻の助言で、ベッドサイドで伯父と昔話を大声でする。

もう一人は、十数年ぶりに再会した、昔の会社の大先輩。結婚する際の仲人をお願いした方だが、事業に失敗されここ数年消息を絶たれていた。もともとプライドの高い人だったから、末期がんでやせ細った孤独な姿など見せたくなかったにちがいない。連休であるのに部屋にはヘルパーの方が一人いるのみだった。突然の訪問にびっくりされていたが、最後は笑顔を見せた。おそらく久々の笑顔であったに違いない。

病院に見舞うことは、痛々しいのであまり好きではない。
今回も、実のところ妻に背中を押されるように腰を持ち上げた。
お会いできるうちに会っておくということは自分のためでもある。
「見舞う」という言葉は、考えると、じいぶんとしゃれたいいまわしである。
妻にはあとでいつも感謝する。

文京区本郷、東大病院の帰り道、妻が路上に力尽きた蝶の屍を見つけた。
秋は彼らが生を全うする季節である。
コンクリートの上で力尽きた屍は、それでも風に美しくたなびき誇り高く居続けていた。

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人間にはすこしでも生きたいという欲がある。だがそのための延命処置は、時として人間の誇りと尊厳を失わせる姿にさせる。

危篤の知らせを受けたとき、母は開いた口から通った管をテープで固定され、目はかっと見開き、心臓マッサージにてかろうじて心臓が動かされているという状態だった。危篤というよりも、ただ生かされているだけにみえた。それがあまりにみじめだった。

私は出張先から帰路にある兄の到着を待たずして、心臓マッサージをやめるよう医師に依頼した。
臆する決断であり、そしてまたそういう提案が医師側から来ることも決してないが、身内しかできないことというのがある。母の姿を見て、次男の僕が独断でそれを決行した。
母はもともと見栄はりな女性だったから、こんな姿を見せたくないに違いない。
その先夜には、禁じられていた入浴をして、きれいに身づくろいをしていたという。意識がなく、すでに死んでいる状態に近いのに、わざわざそれを妨げてまでぶざまな姿をさらさせる必要など、どこにもない。

マッサージをやめると、それまでのおびただしい機械音がすべてとまり、ただ押し殺したような静寂の中にすすり泣きだけが病室に響いていた。僕がしたことは、とにかく開いたままの母の目を閉じさせてあげることだった。

生き物には、本来あるべき姿というものがある。
秋風に美しく揺れる蝶の羽は誇りに満ちていて、見舞い帰りの人間をなんとも切ない気持ちにさせた。