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斎藤由多加のブログだよ

最適化

翻訳された海外の本は、分厚いという印象がある。原書は一冊なのに日本語版は上下二冊、であることがとても多い。どんなに著名な翻訳家が訳したものでも、読み手としての印象はどうも表現がまどろこしくてテンボがつかめない。原著作はきっとすばらしいにちがいないのに、と残念に思う。洋書ってのはそういうものだ。

ゲーム移植の話をしていて、日本語を訳したものも、きっと同じように見られているのだ、と思った。英語を日本語に訳すと長くなる、という話をどこかで読んだことがあるが、僕の経験でいうと、どちらも訳されれば互いに原文より長くなる、と思っている。

これは会話もそうで、だから同時通訳というのは追いつくのに大変だ。表現者というのは、美しく短く言いたいものだ。それを翻訳する側からいうと、どうしたって原文より長くなるのは当たり前である。言語論的に常に最適化したコードを書きたいプログラマーにしてみると、こんな話はしごく当然の話かもしれない。

「タクシー」という言葉、「コンピューター」という言葉、もはや日本語になっているからいいが、翻訳が必要な時代だったら何て言うんだろう?きっとうざくて読んでられないと思う。そういう言葉がいまだに大多数なのだから読んでてうざいのは当然だ。

逆も可なりで、学ラン姿を思い浮かべる「応援団員」を、チアリーダーと訳しただけでは、どうもニュアンスが違うとなる。だから翻訳家はいろいろと苦労をすることになる。その結果翻訳文は長くなる。

「一言でいうならぱ奴は、ウナギと穴子の区別がつかない寿司職人だ。奴が区別できるといったらせいぜいどじょうくらいのものでさ」という文章。僕たちからすればとんでもない寿司職人ということがうかがわれるが、この文を英語に翻訳したらどんな文章になるのだろう。
すでにその翻訳文はテンポを失い、あるいはその意図を失っている。いずれにしても長くなっている。これが、冒頭のまどろこしさの原因だと思う。
映画をゲームにした作品も、ゲームを小説にした作品も、英語を日本語に翻訳した詩集も、原著作が優れていればいるほど、翻訳・移植後されたものは説明がテンポがうざく思えるのである。

オプティマイズ、という言葉がある。昨今のデジタル文化ではよく使われる言葉で「最適化する」という意味によく使われる。
僕もこの文章でつかっている「うざい」という言葉。辞書では何と説明することになるのだろうか?
説明過多にならないように表現をオプティマイズして、最短の表現方法をとろうとする表現者の習性は、読者の想像力がそれを補い各自にフィットしたイメージを持つことを期待してのことだ。翻訳者にはそれを勝手に言い換える自由が与えられていない。

幸いプログラム言語では、コードを解釈するのはコンパイラー(=コンピューター)の仕事であり、そこに「解釈」の余地はいっさい残されていない。ユーザーが見るのは結果でしかないから、結果が同じでありさえすれば、最適化するためのコード表現に文句をいう者はいない。文句の対象となるのは、ゲーム表現そのものである。「うざいゲーム」というのは作者の言いたいことがゲーム性として最適化表現できていないことに起因する。

どうやったら、さくさくとしたゲーム作品がつくれるか。僕はいま、頭の中にあるイメージと自問自答しながらこのことと格闘している、のだと思う。