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斎藤由多加のブログだよ

作者の責任

NHKのETVで東京藝大に保管されている、在籍していた生徒たちの描いた自画像を特集していた。

当時学生だった作者をテレビカメラが探して訪れ、その絵にこめられた当時の自分と対峙した想いを聞く番組。

女子学生第一号(なにが第一号だったんだろう?)という、いまは老いた女性画家は、自宅の倉庫にNHKのカメラを招き入れ、古き作品を回顧的に見ながら、突然一枚のキャンバスをカッターで切り裂いて処分しまう。

番組の主旨が主旨だけに、その光景におそらく多くの視聴者は「ああー」と叫んだに違いない。僕の家族も「あれがもし自分の作品じゃなかったら・・」などと口走る。絵を切り裂く光景というのはそれくらいショッキングなものだ。

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話はかわるが、かつてサラリーマン時代(15年以上前のことだと思う)に、日経ビジネスという雑誌をバラバラとみていたときに、とある巻頭寄稿が目に留まった。当時ホンダ技研工業のトップをしている方の寄稿だった。以下のような内容だった。

「YesかNoか、はっきりしない、と社内で批判される。しかし、自分は創業者ではない。会社の運命をきめる大きな決断には、YesともNoとも判断できない。創業者には会社を潰す権利があるが自分にはそれがない。だからどちらか一つを選択することはできない。どうしても決断はYesでもありNoでもある、になる」といった内容のものであった。

優柔不断な経営者の言い訳、ととってしまえばそれだけの話である。しかし自分の記憶に大きくのこった言葉、それは「創業者には会社をつぶす権利がある」、という一言である。むろん、公開企業が株主総会でそんな発言をしたら大問題であるが、この言葉が15年間ずーと頭の中に残っていた。それが実感として沸いてきたのはここ数年のことだ。

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iPodから携帯に参入したアップルは、imacが発表される時期まで「倒産までカウントダウン」と大っぴらにいわれていた。CEOのアメリオは、シリコンバレー伝説を代表する企業をひきついだはいいものの、なにをすればいいか途方にくれていた。そこでJobsを呼び戻す決断に出た。

Jobsは、なくしては語れないアップルの創業者であり、アップルロゴからマウスとアイコンインターフェイスの採用(PARCから盗んできたというのは詭弁である。XEROXは当時のアップルの大株主としてPARCの門戸を開いたのだから)、マックのデザインポリシーにいたるまで、いわゆるアップル文化をつくってきた人物である。その人物が、古参社員が守り抜いてきた「マッキントッシュ」という名前を捨てさせ、トレードマークだったレインボーカラーロゴをモノ色に変え、宿敵Microsoftを株主に迎えるという施策をとった。創業者でしかできえないことだったと思う。

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それがスターウォーズの未完のエピソード3作の制作であれ、あるいは何であれ、作者でしかでき得ぬことがある。その聖域に第三者が入り込みなにかを作るなどということは、決して許されないことだ。 森進一氏が「おふくろさん」の歌詞を変えて唄っていたことで作詞家の方と大トラブルになっているが、これもおなじような話に聞こえる。

しかし、いったん人々の生活の一部となってしまった以上、作品は一人歩きをするものである。たかが、(といってしまうのも憚られるが)作者一人の人生のおわりとともに、多くの人の心にある夢までストップしてしまうのはいかがなものか、という気がしないでもない。

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中学三年のとき、渋谷の映画館ではじめてスターウォーズを同級生と観たとき、「こんなおもしろい映画があるのか」と子供心に感心したことを記憶している。その時の感動がまだのこっているから、この業界にいるのかもしれない。

そんなフアンとしては、「シリーズは全部で9作ある」と宣言したルーカスの言葉に胸を膨らませたものだ。いつのまにかそれが「6作で映画はおわり」となった。作者といえど人間だから命があるときだけしか活動できない。ルーカスが死んでしまったら、もう誰も手がつけられないというのであれば、僕たちの心の中にあるスターウォーズへの期待は二度と実現されえぬまま、やがて僕も墓に入ることになるのだろうか?だとしたらそれは悲しい・・・。ルーカスが生きているうちは誰も権利的に手が付けられない、などという話があるとしたらそれはもっと悲しい。

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著作権の類はこの際置いておこう。期待して待っていた者の権利というものはそこにはまるでないのだろうか?そんな馬鹿げた気持ちが横切るのも事実である。
ちょうどピラミッドのように、完結するまでは誰かが引き継いで、むろんその作家はとんでもない数の批判の洗礼を受ける事は必至だろうが、後世に展開する準備、あるいは破壊させる段取り、を残しておく責任はないのだろうか?長谷川町子女史が他界された後も脈々とサザエさんの番組が放映されている日曜日の夕方を重ねる毎に、僕は女史の作家としての幅というか人徳を感じるのだけれど・・・。

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ま、僕はデジタルの世界の人間なので、作者本人が元気なうちから悲しいかな作品がハードの消滅とともに続々と消滅することに慣れすぎてしまっている。なもんだから、こんな心配はアナログ芸術への羨望と嫉妬にすぎないことはよくわかっているのであるが・・・。