YOOT.COM

斎藤由多加のブログだよ

第八回 ラベル

うちの会社の本棚には、「シーマン映像」などと書いたVHSテープがざっと数えて30本はある。どれも異なる内容のものだ。

実はこれ、すべて代理店や映像プロダクションなどがシーマン関連の仕事をしたときに送付されてくるもので、いわば保管用素材だ。

彼らからすれば、「シーマン」というのはきわめて象徴的に内容を表すラベルなのだろう。だがシーマンの著作開発元である弊社では、シーマンと書かれているだけでは何の情報性も持たない。いつかもっと詳細な情報を記載したラベルを貼りかえなければ、と思いつつ、ここまできてしまった。

ラベルとは情報の省略利用の典型である。だから見易くなるし、逆に、場合によっては見にくくもなる。人の立場によって見やすい情報の形式は変化するものだ。

一度やってみたかった実験をついに先日実行に移してみた。それはすし屋で「何にしましょう?」と聞かれて、「じゃ、お寿司をちょうだい」と平然と答えてみること。ウケるかなと思って地元のすし屋でやってみたが、ドン引きされた。

会話というのは音楽とおなじでテンポをもっている。すごくおそい回線でのネットサーフィンと同様、そのテンポが狂うと思考までが停止する。省略することを抜きにして人間が会話することは不可能である。この省略という手法があるおかげで、人間は快適な会話を愉しむことができるのである。
だから、住所を聞かれて惑星名や国名から答えるようなだじゃれオヤジはかなり嫌われる。「正しいければよい」、という方程式は成立しない。お互いの範囲をふまえて省略が成立するのがコミュニケーションというものだ。だから、関係が深いほど、コギャル会話のように暗号に聞こえてくるものだ。"過度に正確"は悪になる。省略は仲間意識の証になったりする。

おなじ理由で、過度な省略をされると、聞く側としてはとても雑に扱われているような気がしてくる。そういう時は別のストレスがたまるものである。

うちのスタッフは、とてつもなく重要な案件の判断を立ち話の延長で突然僕に求めてくる癖がある。しかもランチタイムの日常会話のように、ことごとく省略されすぎていて、きいたほうとしては何の件のことだがさっぱりわからない。彼等の頭の中にはその瞬間にぐるぐると回っている重要案件があるのだろうが、突然告げられた側としては「は?_」となる。まるで暗号解読のように、ひとつひとつこちらが質問をする側にまわる。最後には、なんでそんな重要な話を立ち話でしてきたんだ、ということになる。テンポが狂うというのは省略されすぎても起きることのようだ。

たとえばこれがプレゼンテーションや経理財務などの大事な案件だったりすると、「そんな話し方でつたわってんの?」と肝を冷やす。省略する人もさることながら、理解できていないまま流してしまう聞き手にも、「おいっ」と思う。大事なことが理解されていないことに誰も気づかないままおわる会議ほど経営者として恐ろしいものはない。その結果として未来に何が起きることになるんだ!?という恐怖。

会話は、相手の視点にたって、と教育される。
逆に、聞き手が理解していることを確かめながら話をする人と出会うと、じつに気持ちいいし、そして頼もしい気持ちになる。それが聞く側の人であっても同様だ。「この人は頭がいいなぁ」と僕が感じる瞬間である。

勘違いをきちんと回避できる人というのは、口だけが達者な人ではなく、目と耳も達者な人ではないだろうか?そして頭脳もね。伝えることと、そして理解をさせること。この二者は行為としては似ているが、まったく異なる次元の行為だ、ということを人は忘れがちだ。
学生のように小さな社会だけで生活してきた人は顕著である。
学生言葉、というのは、実はそういう失礼な省略のことをいうんではないかな?とおもう。

シーマンをつくっている会社がそのまま本棚に入れてもまったく使えるラベルを貼ってくれる人に厚い信頼感を覚えるのも、あるいは逆に、「シーマン」とだけ書いたビデオテープをそのまま送りつけてくる人たちにいささか腹が立つのも、すべては「相手の視点に立って話をする」という技量のなせる技だ。それは技術というよりも人間の基本的な資質であるように思える。