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斎藤由多加のブログだよ

防衛反応と安心感と人気キャラの関係

ただの日記

子供の頃の過敏なまでの警戒心の強さ、を大人は忘れているし、それが健常、とも思っている。だけれども、けっしてそんなことはない・・・今日のちょっとした体験で、僕の中に当時の過敏さがそのまま残っていることに気付いたのである・・。

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小学低学年の頃、僕は親戚とか母の知人の家に預けられることがしばしばあった。預けられた家庭が夕食の時間になると、僕はとても憂鬱、いや恐怖で満たされた。それは過敏さゆえの警戒心みたいなものなんだけれど、その対象は、生活感のこびりついたその家の「箸」とか「茶碗」とか、そして「米」そのものだったりした。

もともと食欲がないのかというと、そうではない。自宅ではけっこう食べる。ところが環境が変わると、極度に敏感になる。見慣れぬ、そして生活感のある食器がとても不潔に見えるのだ。向こうのこどもたちは料理をパクパクとおいしそうに食べている。いやおいしいにちがいない。がんばらないと、とそれらを無理やり口に押し込めようとしても・・・嗚咽(おえつ)となる。向こうの親は「こんなに奮発したのにどうしたのかしら?」と怪訝な顔になる・・。

思い出せば誰しも似たような経験があるのではないか?・・・・それらは子供ならではの過度の潔癖症であり、いずれは治ると思われている、いわば「一過性の病気」のようなものだ。

だが40代の僕にその「病気のようなもの」はまだ残っていたのだった。今日、出先の会社で、のどの洗浄のために借りた「生活観溢れるカップ」を僕はついに遣うことが出来なかった。肉の薄いピンクのプラスティックのカップ。 ケロタンは描いてなかったけれど、最近見かけない、かなり時代がかったそのカップには、清潔に使われていることは判るのだけれど、たくさんの使用感とも生活感ともいうべきオーラが染み付いていた。そして僕はとうとう喉の洗浄を諦めたのである。

大の男がこうなのだから、実は多くの大人はいまでもそういう側面を今でも持ち合わせているのではないか?急にそんな気がする。

日常品というのは、本人たちからすればまったく見えない「色」とか「臭い」とか「生活の垢」がついている。本人たちからはまるで見えないが、しかし部外者からするとそれらはたまらないのである。

大人はいつしか免疫ができた(=慣れすぎて盲目になった)気になる。「もうオレはなんでもくってやるぞ」と出先の家庭の料理をパクつく。 だがしかし未知なる文化の家庭にいったりすると、どうだろう? 実は、案の定突然食欲がなくなったりする。原因は、よく旅の疲れ、などというけれど、実は消滅したはずの防衛本能だと思う。

西アジアの、東欧の、アフリカの、つまり日本とはかけ離れた文化圏での人々の家庭で出された椀、あるいは箸、そして米と水、そして毛布や寝具まで・・・。見慣れぬものへの警戒反応は誰にでもあるように思える。

Sany0033

慣れすぎた大人たちはそれらを笑ってしまってはいけないように思う。盲目的というのはそういうためにある言葉にさえ思う。いやむしろ、ドラえもんが、つまり見慣れたキャラがあれば安心する子供のほうが、実は対処は単純だったり、すると僕は思う。

人気キャラクターをあしらった商品はどれも子供にウケる、などともっとな理論を奏でているマーケッターの人々は、実はそういう気持ちを完全に忘れてしまっている人たちだ。忘れているから、そんな理論でしか説明できない。そういう子供たちの気持ちというのは、初めて訪れた地域で「ペプシコーラ」を選ぶ僕たちと同じなんだ。

火星移住が実現した未来に、地球から旅行者として訪れた彼らは、マクドナルドとコークを選ぶに違いない。そしてジョニー・デップの映画を見たがるにちがいない。別のもっともな理由をつけながら・・・。