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斎藤由多加のブログだよ

感動は伝達可能か?

戦争、事故、刑事事件、恋愛とスキャンダル、健康、環境破壊・・・・。
世の中にはいろいろな情報があって、メディアを通じてそれらは世界中に一瞬で伝わるし、僕たちは理解したつもりになっている。

しかしそれぞれの情報源となる現場には「当事者」が必ずいる。彼ら脳裏によぎる感情は、ニュースのようにドライではない。いや、それらはニュースになった時に消されてしまうのだ。情報とは第三者の視点なのだから。

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そこで僕たちは、脳内に入ってきたこれらの情報を部品として、再度頭の中でその場を再構成してみる。(これが in-form-ation の語源でもある)

しかしこれらを再構成するのはいうまでもなく当事者ではない。あくまで第三者である。当事者と同じ感情への化学変化はおこらない。視聴者はニュースを見て、たとえば子供を失った母親の無念を推しても、母親とおなじ感情とはならないのである。

苦悩、喜び、悔しさ、絶望、怒り、悲しみ・・・・・そういう感情は情報には含まれていない、いや含めることができない。

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子供がその日見てきた映画の話をしてくれる。熱心な語り口からわかることは、「子供が感動した」という事実であって自分が感動することとは違う。それは感動とは異質のものだ。

情報というのは、事実を再構成するための部品、そして感情は個人の体内のエキス(!)が作り出すもの、という法則がきっとあるにちがいない。

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エンタテイメント業界にいて、自分たちが「情報産業」と記されることにいささかの違和感を感じてきた。ゲームをITと混同表現されることも同じ違和感があった。

おそらく、真実は、僕たちはその、近くでありながらま逆にある「感情産業」だということだ。ともすれば客観として過ぎ去ってしまいがちな情報を、もっとリアルに、主観的にとらえてもらうために、表現者たちはあれこれ努力している。それはもはや情報、ではない。「感情化」である。

感情というのは、あるいは感動というのは、メディアでは伝達できないもの、という認識が僕にはある。とくにゲームをつくっているとね。そう、性欲が湧き上がる時の生体反応に似て、個々人の中でしか生成されないものなのだ、伝達されるのではなく。

作品というのはそれを促す触媒なのかもしれない。

感情というのは、当事者意識の度合に比例してしか生まれないものなのだ。

(もし性欲そのものをメディアが伝えることができたら、この世からEDは消滅する。)