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斎藤由多加のブログだよ

Mクンと、若き日本のゲームクリエーターの方へ

日本の若きゲームクリエーターの方、および、それを志望している方々へむけて。

昨日そして今日、いろいろな出来事を通じて思ったことを書こうと思う。どんな人たちが、つたないこのBLOGを読んでくださっているかはまったくわからないのですが、ね。

日本の文化は残念ながら世界に羽ばたいて行かない。いや、正確にいうと、行きにくい。それは言葉の問題が大きいが、一番大きいものは、私たちの価値観が作品を通じて紹介されていないからである。ここでいう文化というのは、映画や音楽、小説、といった類の意味として使っている。

ちょうど私たちがそうであるように、人はまったく知らない国の映画は見たいと思わない。馴染みのあるものにはどんどんと興味が向かってゆくのと同じ理屈でね。

そういった傾向がいちばん顕著なのは子供だろう。子供はピカチューのイラストがあしらってあるだけで、その対象物そのものに親しみを抱く。かくいう僕も幼少のころはそうであった。親たちは、食べものを口にしない子供になんとか食べさせようとして、あるいは履きなれない靴を習慣づけるためにキャラクター入りの商品を買ってきたものだ。

この習慣は、子供に顕著というものの、だからといって大人になって消失するものではない。ブラッドピットの主演作には思わず興味がわくけど、あるいは最近の韓流ブームで韓国映画への動員がずいぶん増えたようだけど、ロシア映画やインド映画を対しては依然として興味がわかないものだ。だって、それらが劣悪だから、ではなく、知らないから。これが悪循環となって、いつしかハリウッドスターが出演している作品が世界メジャーと呼ばれるようになり、ハリウッド作品への賞がいつしか世界の賞になってしまった。この手法で日本はことごとく文化輸出を妨げられてきているような気がする。アメリカの友人のクライアントが、実はこの審査員だそうで、アニメのノミネート作品ビデオが「どうぞ娘さんへ」などといって回ってきたことがある。「字幕がないと娘はわからないから」と辞退したけど、彼らの純然たる好意は「英語は世界の共通語」と信じて疑わない価値観に裏打ちされていることにクリエーターとしていささかの嫉妬をおぼえたことを記憶している。だって、日本のCDを同じように渡しても「どうせ日本語わからないだろうからな」と思ってやめてしまうに決まっているし。

作品というのは、実に健全な方法で価値観を紹介する手法である。作品を通じて鑑賞者の脳裏では、主人公たちの感情のうごきが推し量られ、文化的背景を知らしめる役割を担っていると思う。日本映画は残念ながらクロサワ、でとまってしまっているし、音楽は「スキヤキ」(しらないよね?)で止まったままだ。

海外の書店では、夏目漱石氏の「吾輩は猫である」や吉本ばなな女史の「キッチン」がかろうじてペーパーバックで片隅に置かれている光景を見かけるが、それとて残念ながら見向いてもらえるような場所ではない。
だが、ゲームだけは、まだなんとかその可能性をつないでいるのです。店の中央に日本製の作品が山積みとなり、子供たちが目をきらきらとさせて、そのパッケージに見入っている光景といくつも遭遇してきた。ここ数年の日本の「ゲームが売れない景気」の間に、他国の優秀なクリエーターたちが大予算でめきめきとその方法論を確立しつつあり、日本のゲーム産業は着々と抜かれつつあるけれど、まだその輝きはうしなわれてはいない。

つまり、日本のゲーム産業には、映画や音楽の先人たちが成しえることができていない「世界」という可能性が悠々と残っているのである。

ゲームというのは、ともすると偏った表現方法と見られがちである。ゲームをすると攻撃的になる、とか、社会に順応できない、とかいった表現がいまだに横行している。でもね、かつて、テレビが普及したときにも同じようなことが言われたのです。漫画の際もしかり、ネットの際もしかり。わずか10年前には某大手新聞に「ネットで知り合って結婚」という記事が奇異な表現とともに大きく掲載されていたことを記憶している。その偏見も、トム・ハンクスメグ・ライアンの「You Got a mail」が公開されてから、いつしかロマンティックな ドラマの舞台へと変わっていた次第である。

ゲームという手法は、ものごとの摂理や因果関係を説明する上で、きわめて有効なものだと僕は今でも思っている。文章で覚えさせられる固定的な歴史の順番よりも、自分の思ったとおりに何度もやり直してみる歴史の因果関係のほうがどれだけ役に立つものか、は、受験生の子供を見ていて改めて痛感するし・・。とにかく「撃ち合い」や「どつき合い」だけではない、もっと多彩な表現対象物がまだまだこの分野には未開拓なものとして残されていると思うのである。それを開拓しないまま放置すると、この偏見は現実のものとなってしまうかもしれないが・・・。

ゲーム開発が大規模化しているせいで、個人的な発想が反映されにくくなっているのは事実である。だけど、若い世代にどんどんとこの業界で力をつけてもらい、もっともっといまのゲーム文法を健全に壊してもらわないといけない。でないといつの日か、「ゲームっていいものだなぁ。なんで日本はこんなに落ちぶれたんだろう?」なんてことを未来の若者たちがつぶやく光景を目の当たりにすることになる。そんなとき「いやいや、かつての日本のゲーム産業はね・・」なんていいわけじみたセリフをノスタルジックに語りたくないのは、熱心なユーザーだって同じことだと思うのです。

いま、大企業の中でゲーム制作に絶望しつつある若きMクン、決して夢を捨てないでほしい。あなたは決して給料水準でいまの仕事を志したわけではないでしょ? いま「ゲームがつまらない」、とたくさんの人に思われているのは、決して誰かのせいではない。似たような分野ばかり追いかけてきた僕ら業界自身のせいだと思う。だからこそ、これから挽回することも僕ら自身の努力で可能と思う。

↓つい先日見かけたゲームショップ看板。SEGAをMSにいちいち入れ替えないのは、さらにその先を達観してのことなのか?

どんな偏見であってもさ、かならず解ける。それが偏見の最大の弱点だ。そしてそれを成し得ることができるのはね、たった一本の名作だったりするのです。それこそが君がやりたかったことだし、まさに「作品の力」ではないだろうか?

お説教みたいでごめんよ、Mさん。(笑)