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斎藤由多加のブログだよ

言葉の力、言葉の限界 その3

つまるところことば、ってなんだろう?
万能でないことはわかっているのだが・・。

「ことばにするだけなら簡単」
「口でいうのは誰でも出来る」
「言葉だけでは信用できない・・・・」

ことば、は実態を伴わない表層的な表現の象徴につかわれることがある。
誰もがたやす口にするこの"ことば"というのは、
もっとも低位のコミュニケーション方法なのか?

「ちゃんと言葉にしなきゃだめ」
「わかるように説明してくれよ」
「ちゃんと話しをしなきゃ」

かくもいう。
ことばというのは人と人がつながるためのもっとも重要な手段なのか?

もし、僕に言葉がなかったら、動物のように半径30m以内でおきたことだけを認識し、「愛」とか「裏切り」とか「嫉妬」とか、実態がまるでない、ちょうど概念などのような存在を知らないまま物質の中で生きていくことになるのだろう。いや、そこに実体があったとしても、いわれないと気付かないものは存在しないに等しい。たとえば、あわびととこぶしの違い。あるいは伊勢海老とロブスターの違い。言葉で言われない限り、僕は気付くこともないまま一生をおわるにちがいない・・あ、いかん、話題がそれた・・。

新作ゲームのアイデアなんてものは、まさに実体がないものの象徴である。おもさも形もないだけでなく、頭の中にあるだけ。いや、本当にそこに何かが存在するのかすらも疑わしい。デカルトのコギトの公理ではないが、「われ思う、故にわれあり」と主張する以外、証明する術がないのが概念である・・。

そんなやっかいなものの具現化を試みるという愚行に及ぶとき、そして最悪なことに、そこに他人の協力が必要なとき、言葉で伝える以外に方法があるというのだろうか? 「そこにないもの」を形容するためには、言葉を使わずに進む方法はあるのだろうか・・。

ところが、である。、言葉の力をここまで書いておきながら矛盾するように聞こえるだろうが、仕事場で僕は口だけでモノゴトを連絡する人のことをひどく嫌うのである。
「全体がわかるドキュメントでくれ」
スタッフにはよくそういうのである。
その話をしようと思う。

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ことゲーム業界の人間は、言葉への感心が低い。おそらくはかつてのゲーム作品が、言葉をはるかに超えた表現力と達成感を持ち合わせてきた、そのファン世代が集まってきているからだろう。たしかに優れたゲーム作品ほど言葉などには依存していない。独自の視覚言語体系を作り出している、それが優れたゲームである。だが、その制作工程となると、話はまったく別である。

会社の立ち話で、「あ、斉藤さん、あの、こないだの描画のバグの件、うまくいかなそうなんですが、もういっこの案でいきますか?」

突然そう話しかけてくるスタッフが、いたことがある(最近のスタッフは理解をしてくれたおかげでめっきり少なくなったけど)。

言葉というのは、けっして全体を見せてくれない。
その状態のまま、OKなどとうかつに答えると、その時の説明に含まれていない別の事象があとで頭をもたげてくる。
それがどんなものか? 映画でたとえると次のようなものである。

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「斉藤さん、依頼のあったエンディング場面ですが、要望どおりのものが撮れましたよ」
「ほんと? 夕日の富士山をバックに馬が疾走している戦国の絵だよ?」
「ええ、夕日と富士山、あと馬ですよね?ばっちりです」
「おお、そうか、ぼくの欲しい風景が撮れたと考えていいんだね?」
「そう思います」

そう聞いて安心してしまう。
が、後日現像されてきた映像をみて、愕然とする。
「おい、空に飛行機雲があるじゃないか?」
「あ、まずいすか?」
「まずいよ、だって戦国時代の映像だよ?」
「でも、斉藤さんは、夕日と富士山と馬っていったじゃないですか?」
「でも戦国時代に、飛行機雲はないだろう!?」
「最初からちゃんとそういってくださいよ・・。そういうんなら取り直してきますけど・・・」
不満げに若いスタッフはそういい、最後に一言「ロケ費またかかりますよ。いいですね?」
と吐き捨てるように去ってゆく。

どの業界であっても古株と若手のぶつかりあいなんて、みなこの手の話ではないだろうか?
かくいう僕もここ2-3年、この類のミスに苛まされてきた。

「それくらいのことわかるだろ!? すこしは頭を働かせろよ」
それが古株の言い分である。
いっぽう若手はというと
「いわれたとおりやったのに、わがまますぎる」
と愚痴をこぼす。

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トマス・ハリスの"ハンニバル"の中の印象的な表現の中にこんな表現があった。
「そんなときハンニバル・レクターは記憶の宮殿を・・」(たぶんこんな感じ)
記憶の宮殿・・・、そう、僕たちは意識という宮殿の中にすんでいる。

うけとった情報を解凍し、宮殿のどの位置に配置すべき部屋なのか、相手の話を一生懸命解釈して位置づけしようとする。

説明の上手な人は、その場所がどこかを最初に話してくれる。下手な人は、突然にごく断片的な一部屋の情報だけを取り出して説明をはじめる。そして唐突に「これどうですか?」と聞かれても、人間は当然のようにわからないのである。わからないまま、でもなんとか判ろうとして話を聞き続ける。そのタイミングの切れ目がわからないまま、わかった気になってしまうことがある。やがて配置場所が本当に正しい場所だったのか、その答えがわかるのははるかあとになって、つまりつまりものが形になってきた竣工式の日、である。

言葉というのは、論理的であるが、3秒後には空に消えてなくなる。
断片的に、かつ時系列にしか表現できないせいで、全体がみえない。

だから、大切なことほど、「全体」として見たくなる。

全体を示すのは、言葉ではなく、図だけでもなく、グラフだけでもなく・・・・となると、それは何だということになる。

今日はかなり眠いので、次回にそのあたりを考えてみたいと思うのである。

つづく