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斎藤由多加のブログだよ

メニューと料理はちがいます その1

評論家というタイプの人がいて、そういう人ってのはいろいろな業界動向とか、人筋とかに詳しいものです。

料理に例えると、いろいろな料理のなまえやウンチクを知っている。そういう人は、あたかも何でも知っているかのような話しぶり、つまり「弁が立つ」わけです。

映画業界とか音楽業界とか、ゲーム業界にも、そういう輩がたくさんいます。

料理のメニューを「たくさん知っている」ことが彼らにはとても重要で、この人たちのアイデンティティーは「知っていることそのものにあるのではないか?」とすら思うわけです。多くの表現する側の者たちは、弁で彼らに「まけてしまう」わけです。

こういう人たちを見分ける方法は簡単です。何かを質問すればいい。彼らは何を尋ねても「しらない」といえないのが大きな特徴です。料理を作っている側の人たちは「しらない」といえる人ばかりです。クリエーターは「しらない」といえる力を創作のバネにしてからです。しかし評論家タイプの人は、そうそう「しらない」といえない。いってしまうと自分の価値が下がると思い込んでいるふしがある。だから彼らがこの四文字を口にする時は、かなりの覚悟をきめた時だけで、っまりその点でこの二者はまったく反対にいる人たちなのです。

でも、こういう評論家系の人たちのが知ってることは、当然ながら、人づてとか新聞とか本とか噂とかネットとか、から仕入れたもので、実際にその目で確かめたことがあるかというと、そうではない。表現者たちがするようにいちいち自分で体験していたら、やけに時間がかかってしょうがないわけで、嫌が上でも「受け売り」的な情報に頼っているところがある。情報通というのは得てしてそういうものです。

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映画のウラ話やあらすじといった業界的な情報を知るのと、実際に映画作品を見て感動する「なにか」を得ることは、似てまったく非なるものです。
映画のあらすじを読んで展開やオチを知るのは1分でできますが、映画を見るには2時間かかる。いや、その作品に「感動」できる自分になるには年単位の時間がかかることも多々ある。

業界の人というのは忙しいものですから、どうしても前者でてっとり早くすませてしまう癖がある。一般人が知らない裏事情を知ってるほうが偉くなった気になるものです。そのぶん自分の業界知識のほうが価値が上と信じているから、一般人が感動している様を上から見下ろして、「あ、そのパターンね」とか「へぇ、そう持ってくか」と、事前情報だけでパターンに簡単に当てはめてしまう。

その一方で、一般人はちゃんと2時間かけて映画を見る。そして感動する。そしてその作品の価値を体の芯でとらえる。その姿を見て業界人はこう言うわけです。「素人は感動できていいな」と。

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素人視点にたって、「どこが感動した?」と聞くと、情報通の人たちはすらすらと答えるわけです。どこかで聞いたことのあるような業界用語を羅列してね。一般の人たちはそういう「弁が立つ」という技術をもっていないから、ださく見えます。しかし大衆というのは聡明です。弁が立たなくても、実生活にその感動をしっかり生かしていますし、よい作品をヒットせるのも大衆です。

これはたとえ話ですが、以上のような業界人は、料理に例えると、実際に料理をたべずに、メニューとか素材リストだけみて手早く判断していまう人たちで、一般人が受けた「感動」をスキップしてしまっているわけ。おのずと栄養失調になっているわけで、それに自分も周囲も気づかないまま彼らの評論活動は業界の中心でつづけられているわけです。

この「感動」という二文字が、「圧縮しては伝達不可能である」だ、というのが今回の僕のテーマです。

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1分かけてあらすじがわかるものを、なぜわざわ2時間かけてまで見る必要があるのか、という疑問は、多くの業界プロたちの頭痛の種であり続けていますが、その答えをいいかえるとこうなります。「なぜ映画製作者たちは、1 分で伝えることのできるストーリーを、わざわざ2時間モノの映画に置き換えようとするのか?」と。この二者の違いに、「クリエィティプ」という技の所在の違いがあるわけです。

この違いは、「感情移入のための演出」とか「説得性をもたせる工夫」とか「共感のための手続き」とかいわれていますけど、要するに、こういう体験共有のためのプロセスをすべて踏んでもらわないと感動は伝えることができない、という答えにぶつかるし、ぶつからないのであれば、世の中の物語はすべて「あらすじ」で代用可能となってしまう。

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映画に例えるとわかりやすかったかもしれませんが、実際の生活はこういう「代用」で溢れています。しかも、メニューがわかっても、料理の味はじつはなにもわからないという事実を、私たちはかなり見落としているものです。一流シェフが用意するメニュー情報はメールで送信して伝達することができますが、味はまったく伝達不能です。あるいは、自分の婚約者の特徴を実家の親に言葉で伝えることはできますが、果たしてその美貌までは伝えることができない。「実にうつくしい」という記述表現で、その人が持つ「美」そのものはなにも表現できていない。つまり、「ことば」と「実態」は背反関係、いや補完関係にあるといったほうがいいのかな、それはまるで合わせ鏡のように、川の対岸にある反対の存在だということを、日々感じるんですね。

活動再開したサザンのコンサートの曲目を聞いて、彼らの新しいライブをみた気になってしまうような人。てはいけないのですよね。情報というのは、ラベルであって、現物そのものではないのだから。

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だから、僕は、情報メディアの発達とともに時代がどんなにコンビニエントに変化したとしても、「感銘」をつくる仕事はなくならない、と思っています。感動を圧縮して情報化することは不可能だからです。その点で「感動」と「情報(~記号性)」は背反するものだと思っているからです。

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業界内にいる、たくさんの評論家風の輩が、だからどれだけ会議や講演会で知ったかぶりの風を吹かせたとしても、いざ彼らは「感動」を自分でつくることはできないわけで、その関係性は、「アーチスト」と「芸能レポーター」くらいに違うと思っています。たったひとつ、彼らが「アーチスト」と「芸能レポーター」のたとえよりやっかいなことがあるとすれば、・・それは、彼ら本人すらも、自分がどちらかわかっていない、という点をです・・・。