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YOOT.COM

斎藤由多加のブログだよ

ブログを書くってどういう意味があるんだろか?

ツイッターのフォロワーの方から、「最近プログを更新してないゾ」という指摘を時々もらうので、そのたびに「たしかにそうだ」と反省する自分がいました。

僕がツイッターをはじめたのが今年のGWあたりだったから、ここ4ヶ月ほど、ブログ更新の手抜きしていたといえます。

「しかし、どうしてツイッターはさんざんやっているのにブログはなぜやらなかったのか?その違いの本質はなにか?」あたりについて、この連休、考えてみました。今日はその話。

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まだツイッターをやっていない、いわば未経験者の人との間でツイッターの話に及ぶと、「ツイッターって何?」と聞かれるわけです。その時に迷うのが、どう説明するか? たとえば「画面の違い」(←この表現の意味、なんとなくわかってくださいw)を話せばいいのか、「しくみのちがい」を話せばいいのか、はたまた「内容の違い」を話せばいいのか、って迷いです。新種の産物ってのは、説明がむずかしすぎるわけで・。

まず、「画面の違い」で説明するときは、「自分が指定した人がつぶやくと、ニュース速報のようにリアルタイムに、ヘッドラインが自分の画面に飛び込んでくる」などという表現を用います。

「しくみの違い」で説明したほうがいいと思われる場合は「フォロワーという名での定期購読登録をすると、140文字という短い文章が動的に配信されるのでブログのように見に行かなくても、告知されるしくみです」といった表現をします。)かなり乱暴な表現ですけどね)

しかし、三つ目の」「内容の違い」となると、すこし考えてしまう。
短くてもいい内容であればツイッターで、長いものはブログ? ちとちがうな。

読ませたい相手が特定であればメール、半特定であれば、ツイッターで、不特定であればブログ? これもちと違う。

リアルタイムがツイッターで、そうでないのがプログが? これも、ちがう。

「そもそもメールやブログとツイッターを比較する事自体がナンセンスですよ」という言い方、これじゃ背理法過ぎて、なにが言いたいのかさっぱりわからない。

そういうことで、自己分析してみたのです。「どうしてツイッターにはまってるおかげでブログを書く気がおきなかったのか?そこになにかヒントがあるのではないか」と。その自己分析の結果として浮かび上がってきたのが今回のキーワードである「あいづち」という言葉です。

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皆さん、一人でレコーダーにむかって話したことってありますか?
たとえば、携帯の留守番電話。
これって、いつもの自分のペースで話すの、なかなかむずかしい。
会話であれば、相手が「あいづち」をうってくれるから話しやすいですが、一人だと「独白」みたいでなかなか上手に話せない。[あいづち」って、何のためにしているか、と考えてみたら、相手を元気づける行為ということにいきつくわけです。

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僕が学生だった頃、オールナイトニッポンというラジオの深夜番組があって、ハマってました。深夜に、音楽やはがきをまじえながらパーソナリティーと呼ばれる人が2時間、はなすわけです。で、ビートたけしの回(たしか毎週木曜日だったかな?)は、その中において社会現象なみの人気を誇っていた。たけしさんの回は、ですが、かたりのあいまあいまに笑いながら「あいづち」をうってる人の声が聞こえてくる。これが放送作家の高田文夫氏であることはあとで知ることになるのですが、最初は「だれだこいつ?」と思って聞いてたわけです。たけしさんは芸人だから、こういう相づちがあったほうがやりやすかったのでしょうかね。作家とふたりでスタジオに入るという珍しい番組でした。

で、話はもどりますけど、ツイッターは、はやいピッチでこの「あいづち」が帰ってくるわけです。ブログが独演会だとすれば、ツイッターはお座敷での飲み会。トーンも省略あり、の口語で、笑いやつっこみや野次が同様のトーンで飛んでくる。相手の顔も見える・・・しかもそこに「間」という時間軸があって、これが絶妙に新鮮なわけです。

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女子高生の会話が論理的に破綻している、と指摘する作家のおじさんがあちこちにいます。
でもね、そういう人の論理性の判断基準って、「書き言葉」つまり文語を基準においている。書き言葉をそのまま話したら、論理性は確保されるでしょうが、感情移入のタイミングはずれずれ、になります。討論で論破はできてもシンパシーは得られるかとなると別。「あいづち」、がそのいい例で「へぇー」とか「まじ?」とか、つまり単体では意味不明なものばかりです。文語的には、「あなたのいうことには同感です」みたいなことになっちまう。論理的には明快かもしれないが「はなしに水をさすなよ」となる。

論理性を意識しすぎるやりとりには「言葉の音楽性」がまったく欠落しているわけ。この「言葉の音楽性」というのは、「間」とか「二ュァンス」のことですから、右脳的ですが、左脳性は欠落していることがおおい。

でも感情ってのは、論理だけでは決して屈服してくれないものでして、原稿として書いたセリフをいざよみあげて、ぜんぜん感情移入がおこせな撮り直し、という経験は、シーマンでも嫌というほど経験しました。口語のすごいところってのは、イマジネーションと解釈の力の上になりたっているところです。間の取り方とメロディーが意味の大半を担ってるんですよ。いいかえると、二人の人間が感情できるプロセスのコストとして論理性を犠牲にしているところが多分にある。誤解の余地も多分にある。外国語への通訳も困難だったりする。

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そういえば、僕のブログは、理屈っぽい、とよく言われます。論文みたいだ、とも。理論的に何かを文字で記述するのは、たしかにあたまを使うし、面倒くさい。読む方も面倒くさい。

ひたすら論理的に書けばいいというのは「論文の理屈」であって、多くの人というのは作家のおじさんみたいに「論理的にものごとを説明したい」なんて思っちゅいないもんです。「海外は論理性の教育がしっかりしている」と妄信的な事を力説する人をツイッターで見かけるのだけれど、とんでもない、ストリートで交わされる若者の英語会話なんて、略語の押収す。イマジネーションを必要としない学校英語では太刀打ち出来ない、それが人間の会話ってやつです。いや、よそ者ではわからない省略語こそが、会話のテンポを高めている「解釈能力」なわけで、そこには文語とは違うリテラシーが確固としてあると思う。築地職人の「競り」を素人が見てもわからないのに似てね。

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といったように、僕がプログで書くことって、理屈っぽいこと、という点でツイッターとは正反対ということを自ら今回も体現してしまったのでありまして、またも、申し訳ありません・・。ガンコオヤジがだれにも邪魔されずに独自の理論を展開するためにプログはあるのではないか、と、いまさらのように思った次第だあります。

ちなみに、今回の僕のブログのような「説教のような長文」をタイムライン上で繰り広げると、フォロワーは確実に減るというのもツイッターの特徴です。これはながーい結婚披露宴のスピーチが嫌われることにも似てます。多くの披露宴列席者の本当の支持を得るには、「笑い」を含めて間の感性を磨かないとならないという点においても、論文とは違うリテラシーツイッターには試されていると思うわけです。