斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
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アウトラインプロセッサーその2

アウトラインプロセッサーとはなにか?と一言で聞かれたら、「自分の(思考の)鏡」と答えるかな。

アイデアプロセッサーとも呼ばれるこのソフトは、「アイデアを生み出してくれるソフト」であるわけがない。だってそれは人間の脳しかできない行為だから。

過去のさまざまな事例を紹介する「暗号解読」という名著がある。プログラマー、あるいはコンピューターを利用する企画者、は是非ご一読をお勧めするのであるが、この本のテーマはは読み方を変えると、「コンピューターは暗号解読ができない」でもある。

これはどういうことか? 簡単に説明すると、暗号化されたアルファベットの組み換えをしても、その中の一つが「正解だ」と判断できるのは人間でしかないという話。あれこれと符号の組換え作業は機械化できても、膨大なそれら候補の中から正解を判別する天文学的時間を加味すると、結局解読したとはいえない、ということである。サルがタイプライターをむちゃくちゃに打った中から、シェイクスピアを確率的に期待できるか、という命題に似ている。
そもそも暗号がつかわれるのはたいてい戦争中であるから、限られた時間内に解読できないと、とうに敗北が決定している、というパターンである。

暗号解読の歴史とは、だからつまり「解読方法を直感する人間の特殊な能力」の歴史を綴ったものともいえる、そういうテーマの本である。

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シミュレーションという言葉が好きで、僕はこれまでシミュレーションゲームばかりを手がけてきた。そんな経緯の中で、できることなら自分自身の脳をシミュレーションできたら、とも考えることがある。「所詮そんなことは無理」と思うかもしれないが、ひそかに一部なら可能だろうと僕は今でも思っている。ただ条件がひとつある。自分自身が記述できる言語を用意しなければならない。

さて、アウトラインプロセッサーとは、自分を整理して「そこに新しいなにか」を発見をするソフト、である。むろん発見の対象は「自分の思考の中にある何か」である。だから「自分の(思考の)鏡」だと表現してみたわけで。

だから本来あつかうDataは「日本語」のような文字である必然はない。ちなみに昨今のデスクトップミュージックの普及は、「音符のアイデアプロセッサー」の役割をシーケンサーが果たしていると思っている。

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僕の会社の若手社員に依頼する仕事でもっともペースの遅い仕事はなにか?と聞かれたら僕は迷わず「企画の分担」と答えるだろう。

企画の骨格ができたとしよう。その次には肉付けやら行間をうめる工程をスタッフで分担することになる。ところが、そのとたん、スピードはぐんと落ちる。一冊のエッセイを一人で書けば2週間でできるものを5人で分担すると、一冊仕上げるのに半年かかる、という状況。単純計算では60倍の遅さとなる。

その原因はなにか? それぞれの企画におけるコミュニケーションの記述言語の不在である。たとえばシーマンのように日本語をAI化する作業で身にしみたことがある。どこまでが「題材としての日本語」でどこまでが「スタッフの日本語」か?その区別がつかないのである。この、一件どうでもいいようなことが、会議の効率を著しく低下させ、精神を疲労させる。 もうすこし分かりやすく言うならば、「日本語では日本語の構造体をうまく記述できない」ということだ。つまり、扱う題材とその記述言語は、別の構造体でないとならない、という発見を、膨大な時間とコストを払って僕らはしたように思う。

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さてアウトラインプロセッサーの話に戻ろう。
自分を投影するための言語、があれば、だからどんどんと思考は機械(コンピューター)によって加速することが可能だと思う。問題は、自分の思考を記述する言語はなにか?である。

言語とは組み換え可能な記号のことである。「絵」や「音」(音符ではなく)は言語ではない。言語化されているものはどんなものであれコンピューターは処理が可能である。だが言語ではない対象、つまりプロセシングできないものの場合、たとえばアウトラインプロセサーに絵や音がどれだけ貼り付けられたとしても、これらってあくまで「おまけ」「飾り」、にすぎないのです。

では、アイデアをプロセシングするために、世の中にはどんな言語があるのか?となるわけだだけれど、たいして、ない。すでに存在するまともな言語は、数式と音符、あとは電車のダイアグラムの類、くらいである。曖昧なものを含めるならばここに「言葉」が入ってくる。(ちなみにプログラム言語はここにいれてない。プログラム言語自身を、プログラム言語で記述シミュレートしようとしても上記の理由で破綻するから。)

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そうやって消去法で考えると、世の中に存在するアウトラインプロセサーはすべて「文字」ベースのものばかりであるのも無理はないんだろうなぁ。新たな知らない言語を学んでまで思考する需要がこの世にはまだないし、その言語を開発する企業などいないから。

MindMangerを選択した理由はなにか?と聞かれたら、「手書き入力が可能だった」からです。僕は個人的にピュアタブレットPCを使っていて(キーボードのついてないうすぺらなPC/もう生産中止なのでこのマシンは貴重である)、出先でペンで書いたものをプロジェクターに投影してスタッフに説明する。だから会議室には液晶プロジェクターが常備されていて、必要に応じてそれらは(WIFIで)プリントアウトされるしくみになっている。

そのソフトとしてアウトラインプロセサーを探していたので、MMということになった。それ以外のこのソフトの機能が特段優れているとは思わないのだけれど。

文字ことばというのは、先述したとおり言語としては曖昧であるから、プログラムが処理できるものではない。「絵」や「音」と同様、かざりである。ましてや手書きの文字になってくると来ると、「絵」そのものである。

だが、タブレットPCを使う利点、言い換えると手書き文字の利点は何かというと、自前のコンピューターである「右脳」が活発に稼動すること、である。

キーボードに向かって、背骨を曲げた姿勢で発想する内容に限界があるから、いたしかたなく手書き作戦を多様しているというわけである。ちなみに万年筆に凝っているのも同じ理由で、開発会社としては異例だろうが、うちの会社は新入社員は「万年筆」がプレゼントされる。

アウトラインプロセサーの進化は、これからのコンピューターソフトウェアの進化を決定づけるくらい重要だと思っていて、それこそが人間とコンピュータのかかわりの本質を担っていると思うのである。MacProがどれだけ薄いといっても触手は動かないが、タブレットマックが出た瞬間、僕は徹夜で並ぶに違いない。そこに入っている「ソフトウェア」に期待するという意味で。

つづく

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課金のジレンマ

新橋から神田までタクシーで移動することに。
「だったら高速使っちゃいますか?土橋から京橋まではタダですから」
タクシー運転手はすかさず土橋のインターを駆け上がった。

首都高には一箇所だけ、この真空地帯がある。この区間は実質的な無料区間となっている。

別のタクシー運転手に聞いてみると誰もが「急ぐときには使ってますよ」とのこと。
「理由は?」そう聞くと「料金所を立てるスペースが取れなかったんじゃないですか?」と答える。料金所を無理やり立てるよりも、金をとらない方が割り安だ、という判断がどこかであったのだろう。いずれにしてもこの入り口はプログラムでいう「裏技」か「バグ」ということになる。

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首都高がなぜに高いのか? の理由の一部に料金所の管理がある。
お金というのは不思議なもので、課金しなければまったくかからないコストが、課金したとたん膨大に発生するケースが多々ある。

街にある見慣れた公園。ここを入場有料にして売り上げを設備管理費に廻そう、としたとたん大赤字になる。最初から無料にしておきゃよかったのに、となる。利用者がいるからといってそこに課金すれば儲かるというわけではない。

高速道路で不正利用者を防ごうと24時間体制を作り、集まってくる売り上げに職員の不正がないか、をチェックしていたら、そりゃコストも膨らむというもんだ。

かつてネットコンテンツ課金で目の当たりにしたのは、コンテンツ開発費よりも課金のシステム開発費が高くつくこと、だ。ユーザーが負担する価格の大半はコンテンツ代ではなく「課金代」というわけである。

これを回避する方法はひとつ。「外部の課金サービスをつかうこと」だ。集約してコスト圧縮する、という社会原理。あるいは課金の放棄しかない。

僕は思うことがあって、これからは「課金」という市場の根底をなすビジネスモデルはどんどんとコストがあがり、そしてその分集約していく、ということ。そして「鉄道」や「電話」のように寡占状態になってゆくということ、そしてその他すべてのサービスはこの寡占業者のユーザーになっていくということ・・・。

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田舎道を走っていると、「みかん 100円」などという無人店舗を見かける。この無人販売価格は性善説にもとづいた価格である。性悪説にもとづいて店員をつけたらその価格は倍以上になるだろうし、売り手も赤字だろう。

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最初から課金なんかしなかったらよかった・・・。ネットのビジネスを考えている人にもそういう考えがよぎったことは多いのではないだろうか、と思う。

(参考までに、都内でのみかん店頭販売価格はさらに倍近くになる。)

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人間メッセンジャー

大学3年の春休みに、1ヶ月ほどアメリカに一人旅行をしたことがある。
そのほとんどはニューヨークに滞在して、帰りにL.Aと、ホノルルにたちよって帰国した一ヶ月だった。

たいしたお金がないので、ニューヨークではYMCAに宿泊していた。ビデオカメラとデッキ(当時は一体型ではなく、いまのテレビロケ用ほどの大きさがあった)を同級生の盛田君(ソニー一族のご子息)から借りてもっていったのだが、その映像の一部は後に建築学科の卒論ビデオに使用した。

だけど、このビデオが一番に役立ったのは、このYMCAで知り合った初老の男性の映像をホノルルに住む日系のギャルに届けたことだったと思う。なんとなくノスタルジックにその話を今日はしよう。長文になるが・・・

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退役軍人のその老人は、ニュージャージーあたりから癌の治療で市内の病院に通院するためにYMCAに滞在しているという。名前は完全に忘れた。

さてこのYMCAというのはいわゆる格安の宿泊施設で、そのかわり最低レベルの空間を提供してくれるだけだ(最近はどうなのかわからんが・・)。だから学生とか貧乏旅行者しか宿泊しないんだが、そこでの隣人として僕はこの人と知り合った。

ある日「ミソスープを買ってきてくれ。日本食は癌にいいんだ」彼はそういって僕に味噌汁を買いに行かせたいようだっだけど、僕はどこに買いに行ったらいいものやら、てんでわからない。たいした役に立たなかったけど、親子以上に年が離れたぼくらは夕方会うたびにとても仲良くなった。

そのおじさんが、「ホノルルに行くのだったら是非会って欲しい知人がいる。独身の美人だ。オレがキューピッドになるから」とある日言い出し、僕に住所をくれた。「知らない土地で、用件もないのにいきなり住所をいきなり渡されたってなぁ・・・」と生返事で答えていた。

ニューヨークでは日々何処を訪れたか、についてはろくに覚えていない。グリニッジビレッジあたりをただ回ったり、地下鉄でセントラルパークあたりに行ったくらいは記憶にあるのだけど・・・ただウォークマンにいれてきたサザンの「がんばれイエローニューヨーカー」が流れてきていたことを強く記憶している。あ、それからコロンビア大学に留学していたT君も訪れた・・けど、引越しで忙しいととても邪険に扱われたっけなぁ・・。友達がいのないヤツだとその時は思ったけど、今でもすごくそう思っている(笑)

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そもそも二十歳の学生がいきなりニューヨークに行く、と言い出した理由なんてたいしたことはない。深夜のオールナイトニッポンで桑田圭祐が、佐野元春のことを「単身で乗り込んでゆく勇気はすごい」といつも褒め称えていただけのことだ。後に佐野元春はその時に制作したVISITORというアルバムで日本にラップを持ち込んだ。

さて、話はもどって、いよいよNYを離れる日が近づくと、ある日突然、その老人が軍人時代の帽子をかぶり僕の部屋のドアを叩いてきた。驚く僕にかまうことなく部屋に入り、「ビデオを廻そう」と言い出す。そして回りだしたカメラにむかってああだこうだと彼女向けのメッセージをいれたのである。とり終えると「このビデオを絶対に届けてくれ」といい、そしてすこし涙ぐんだ。

最後の夜は、ビレッジのBlueNote(老舗ライブハウス)で、ジャコ・パストリアス(ベーシスト/words from Mouthというバンドを従えていた)のライブを一人で見た。酔ってタクシーで帰宅し、その翌朝僕はNYを後にした。

そのテープとともにホノルルに到着したのはそれから1週間のことである。

その「彼女」の連絡先は、たしかFirst Hawaiian Bankのホノルル支店だったと思う。勤務先に電話をいれメッセージを残すとあとでホテルに折り返し電話がかかってきた。それまでの経緯を簡単に説明し、翌日ランチをご一緒することになった。

どうやって落ち合ったのかはよく覚えていない。連れて行ってくれたのはたしか座敷がある和風のレストラン(観光地に多いタイプ)で、スキヤキだか天ぷらだかをご馳走になったんだけど、味はおろかろくに料理なんて覚えていない。なにせ彼女にその老人のメッセージビデオをみせたくてうずうずしていたし、それ以外のことを考える余裕はいろいろな意味でなかった。

(モニターがないので)カメラのモノクロモニターとイヤホンで、それはまるで不慣れな放送局のスタッフみたいにファインダーを覗く彼女を横で眺めていただけなのだけれど、、彼女の眼からは大粒の涙がぽろぽろと落ち始めて、ただただおどおどするしかなかった。

いわゆる日系アメリカ人の彼女は、日本語はまったく話さない。名前も忘れてしまったけれど、一つ年上で、とても明るい、そして美人だったことだけは記憶している。

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帰国して数週間して、手書きの(とても読みにくい)手紙がその老人から届いた。それを解読するように読んで、僕も手書きで手紙を返送すると、またその返事が届いた。

あたらしい学期が始まっていたのと、学園祭の準備があるので、といってもいちばん正直な理由は「とても面倒な作業だったから」なのだけど、僕の返事は遠のき、老人からの手紙もいつしか途絶えた。 もう25年近く経っているから生きているとは思えない。電子メールがあったなら、と思う事がいまも時々ある・・。いや、もしメールがあったなら、ビデオメッセンジャーなんてこと自体が不要かな・・・となると、この経験は今となっては成り立たないことかもしれない。個人情報やらプライバシーやら防犯やら、やっかいな時代だから・・。

貴重な体験といいたいところだが、結局この旅行で僕は、世界の中心を見てきたようで、ほとんどなにも見てきてはいないことに僕は気付いた。ただの肝だめしみたいな観光旅行だったと思う。無銭旅行を生き抜くつもりで行ったけど、「頼むから持って行け」、と母に持たされたクレジットカードに後半はほとんど助けられて戻ってこれた次第である。このおじさんの体験だって、「いい話じゃないか」という人もいるだろうけど、その日系のおねえさんと後日結婚したというならいざ知らず、どこにでもある程度の話にも思う・・・。

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実をいうと僕はニューヨークは、あまり好きではない。社会人になってから仕事で4-5回訪れたけれど、それらはたとえばNY支社の訪問(サラリーマン時代)、調査のための出張、あるいは世界の著名な方との面会、それらは映画シェルタリング・スカイの音楽制作中の坂本龍一氏やTEDの議長リチャード・ワーマン氏、KISSのジーン・シモンズ氏との面会といったものであるが、いわゆる目的のはっきりした案件で訪れたものばかりだ。 セレブな街というのは僕のような人間にとってはある意味、居心地の悪い街でもある。プライベートにはどちらかというとだらりとマイペースの西海岸が好きで、かつて住んでいたバークレーもそういう理由から選んだ。高層ビルや都会の喧騒はどうも身体に合わないと決め付けているから「ニューヨークでバケーションを過ごす」という人の気持ちがわからない。

だけれど、夜々、我がもの顔で酒を飲んでいる愛すべき六本木も、旅行者から見れば排他的で、セレブで、いかにもまゆつばっぽいビル街にちがいない。この土地でうまい酒を飲んでいるという自分を逆分析するならば、ニューヨークももっと深く食い込んでみれば、実は水の合う街かもしれない、とも思えてくる。

そう思うと、もう一度、ニューヨークにいってみようかな、という気持ちがすこしだけ沸いて来るのである。

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防衛反応と安心感と人気キャラの関係

子供の頃の過敏なまでの警戒心の強さ、を大人は忘れているし、それが健常、とも思っている。だけれども、けっしてそんなことはない・・・今日のちょっとした体験で、僕の中に当時の過敏さがそのまま残っていることに気付いたのである・・。

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小学低学年の頃、僕は親戚とか母の知人の家に預けられることがしばしばあった。預けられた家庭が夕食の時間になると、僕はとても憂鬱、いや恐怖で満たされた。それは過敏さゆえの警戒心みたいなものなんだけれど、その対象は、生活感のこびりついたその家の「箸」とか「茶碗」とか、そして「米」そのものだったりした。

もともと食欲がないのかというと、そうではない。自宅ではけっこう食べる。ところが環境が変わると、極度に敏感になる。見慣れぬ、そして生活感のある食器がとても不潔に見えるのだ。向こうのこどもたちは料理をパクパクとおいしそうに食べている。いやおいしいにちがいない。がんばらないと、とそれらを無理やり口に押し込めようとしても・・・嗚咽(おえつ)となる。向こうの親は「こんなに奮発したのにどうしたのかしら?」と怪訝な顔になる・・。

思い出せば誰しも似たような経験があるのではないか?・・・・それらは子供ならではの過度の潔癖症であり、いずれは治ると思われている、いわば「一過性の病気」のようなものだ。

だが40代の僕にその「病気のようなもの」はまだ残っていたのだった。今日、出先の会社で、のどの洗浄のために借りた「生活観溢れるカップ」を僕はついに遣うことが出来なかった。肉の薄いピンクのプラスティックのカップ。 ケロタンは描いてなかったけれど、最近見かけない、かなり時代がかったそのカップには、清潔に使われていることは判るのだけれど、たくさんの使用感とも生活感ともいうべきオーラが染み付いていた。そして僕はとうとう喉の洗浄を諦めたのである。

大の男がこうなのだから、実は多くの大人はいまでもそういう側面を今でも持ち合わせているのではないか?急にそんな気がする。

日常品というのは、本人たちからすればまったく見えない「色」とか「臭い」とか「生活の垢」がついている。本人たちからはまるで見えないが、しかし部外者からするとそれらはたまらないのである。

大人はいつしか免疫ができた(=慣れすぎて盲目になった)気になる。「もうオレはなんでもくってやるぞ」と出先の家庭の料理をパクつく。 だがしかし未知なる文化の家庭にいったりすると、どうだろう? 実は、案の定突然食欲がなくなったりする。原因は、よく旅の疲れ、などというけれど、実は消滅したはずの防衛本能だと思う。

西アジアの、東欧の、アフリカの、つまり日本とはかけ離れた文化圏での人々の家庭で出された椀、あるいは箸、そして米と水、そして毛布や寝具まで・・・。見慣れぬものへの警戒反応は誰にでもあるように思える。

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慣れすぎた大人たちはそれらを笑ってしまってはいけないように思う。盲目的というのはそういうためにある言葉にさえ思う。いやむしろ、ドラえもんが、つまり見慣れたキャラがあれば安心する子供のほうが、実は対処は単純だったり、すると僕は思う。

人気キャラクターをあしらった商品はどれも子供にウケる、などともっとな理論を奏でているマーケッターの人々は、実はそういう気持ちを完全に忘れてしまっている人たちだ。忘れているから、そんな理論でしか説明できない。そういう子供たちの気持ちというのは、初めて訪れた地域で「ペプシコーラ」を選ぶ僕たちと同じなんだ。

火星移住が実現した未来に、地球から旅行者として訪れた彼らは、マクドナルドとコークを選ぶに違いない。そしてジョニー・デップの映画を見たがるにちがいない。別のもっともな理由をつけながら・・・。

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設計図

脚本なるものに素人である僕が手を染め始めて1週間。調査と準備をずいぶんとしてきたわりには、そのほとんど(すべてではないが)をあっさり捨ててしまう、それが切なく、気持ちいい。

脚本は設計図面だ、という橋本忍氏の言葉がすこしづつわかってきて、これまた愉しい。そしてつくづく自分の才能のなさを思い知らされる。なんとなくゲームを作ってきた人間に、脚本のレッスンはとても勉強になるのではないだろうか?

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ここのところ第三次黒澤ブームが僕の中で吹き荒れている。毎日のようにAmazonから書籍が届き、家族もすこし困惑気味である。「おとうさん、こんなに本をよめるの?」といった表情で娘は呆れる。

DVDを見る時間も本を読む時間も深夜になる。だから僕の書斎からはごそごそと一晩中音がして不気味にちがいない。そしてキーボード。

しかし、ひとつ、いまさらのように便利だと感心したことがある。それはマルチメディアと呼ばれる家電技術の恩恵である。ま、正体を言ってしまえば大したことないのであるが、書斎の机上のモニターは24インチあるおかげで、資料映画(DVD映像)と原稿(ワープロ)と、ストーリーボード(アウトラインプロセッサー)を一画面に出すことができるわけだ。そこに最近は取材にいかなくてもwebが加わって調査も指先だけでできてしまう・・・なんと便利なことか。

大画面は、机の大きさに匹敵する、男の商売道具だ。プランナーにも、いやプランナーにこそ、大画面PCが必要、と最近思う。

かつては年に二度も三度も買い換えたPCだが、ここ数年はいまのデスクトップ環境がとても気に入っていて、外付けHDさえ増設していればあと2年はもつだろう、なんて期待している。ちなみにVistaに移行する予定などいまのところまったくない。IT機器にお金を使わなくなったのは、進化が止まったせいではないかな? 薄型Macもなんのその、ペン入力のポータブルが出来ない限り触手は動かない。

そうそう、そういえばアウトラインプロセッサーには、MindManagerを使用している。このソフトに行き着いたいきさつについては、会議室のプレゼン環境と密接な関係があるので、いずれ紹介したい。

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食資源と見栄とかマナーとかの関係

「もったいないなぁ」と思うことが多々ある。たとえば、ちょっと高級なとんかつ屋でふんだんに振舞われるキャベツ。

写真のキャベツは普通のキャベツだけど、とても美味しいのである。だがとんかつが腹にたまるから食べきれない。このキャベツは、いったん僕のテーブルに出された以上、残った分はすべて廃棄処分になるだろう。

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「俺が食べないとこいつらはただゴミ箱行きの運命だ」そう考えると、「じゃ、ビニール袋をもらって帰ろうか・・」という考えが一瞬脳裏をよぎる。が、一緒にいる客(仕事関係)とか、そのあとの行動を考えると躊躇してしまう。

一日でどれくらいのキャベツがこの店のゴミ箱に入るのだろう?結局見栄え(みばえ)をよくするためだけに育ってきたキャベツ・・・。

この「完全に捨てられるための食資源」って、日本で一日にどれくらいの量になるんだろうか?

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大手ハンバーガーチェーンでは、小さなプッシュアウトに入ったマヨネーズとかケチャップがとり放題だ。アメリカでは、ごっそりそれらを席にもっていって、そんでもって開封されないままごっそりゴミになる光景がある。やっぱりこれらも一度も開封されないまま。「もったいない」とおもうけど、かといってどうすることもできない自分がいたりする。

僕は贅沢は大好きなんだけど、無駄がどうにも許容できない。
オフィスのレーザーカラープリンターの調子がよくない、となると「買い換えたら」とすぐ人はいうんだけど、そのたびに直して留まってきた。修理の人が出張すると数万円もかかるから、三回お願いするなら買い換えた方が得だということになる。けれどもその性分なもんだからどうにもそれができないのである。

先進国ほど、土地や人件費の方が物資より高い。だから保管やメンテするより、捨てて買い換えるほうが安いということになる。けれども、そこは人間。理屈はどうであれ遺伝子は正直である。「そうかもしれないけど、これ(形あるもの)を捨てるのはやっぱもったいないよ」となる。この直感めいた感じってとても大切な人間的の感性だと思うけど、数式に負けてしまうわけである。

もったいない、という言葉を世界に流行らせよう、というキャンペーンがあったけれど、それでこの言葉は日本語にしかない概念だというけれど、僕にはそうは思えない。人間が本能的にもっている感覚だと思う。それを数式に勝てるように定量化するしくみ、それがこれからの時代に必要な気がする。

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企画者向け「コラボレーションノ勧メ」の本

橋本忍、という脚本家の名前を知ったのは「八ツ墓村」(松竹)の時だったと思う。つまり中学生の頃。

野村芳太郎(監督)、橋本忍(脚本)、芥川也寸志(音楽)と、誇らしげに広告に書かれていた。最初のお二人は「砂の器」のコンビ、とかともかかれていた記憶があるが、砂の器は見ていなかったので(当時)あまりピンとは来なかった。(砂の器をDVDで初めて見たのは4-5年前である。圧倒されすぎて、デジタルリマスター版を欲しいと思っている)

それから25年以上たって、「大玉」の製作準備あたりから現在にいたる5-6年、なぜかクロサワ作品の研究がライフワークのようになってしまい、この「橋本忍」という人の名前が最近の僕の中で急浮上したわけである。この「複眼の映像」という氏の著書もその流れで読んだわけだ。

僕は脚本家ではないから(でもその実、いまはシコシコとまるで学生のように取り組み始めているのだが・・それについてはまたいつか紹介するとして)、この本が脚本家志望の人向けのバイブル的存在なのか、あるいはきわめて高度かつルール違反的な技法の秘伝書なのか、今の僕にはわからない。

ただ、アマゾンから昨日とどいたばかりの本書にはすでに10回ほどバットで頭を殴られており、本書内のその「バット殴打部分」にはアンダーラインが引いてある。エッセイでバット殴打の経験は久々だ。

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黒澤組の脚本家チームは旅館に籠もるという話は有名だが、実際にそれが一つの部屋で、しかも日曜なしで二ヶ月近く休みもなく続けられたという話を読むと、そのどえらさがすこしわかる。業界違えど自分たちの努力不測、根性不足を嫌が上でも思い知る。

どんなに優れた職人でも、独りよがりの視点から抜け出だすのは容易ではない。そんな方法は僕も知りたいのだけれど・・。本書のタイトルの「複眼」という言葉には、その抑止的な意味がこめられている。予想以上に深いその意味は、たとえば黒澤作品の出来不出来にもこの共同執筆体制が大きく影響しているという事例の中に具体的に明かされている。

ちなみにクロサワ映画の脚本クレジットに、黒澤明の名前が入っていたりいなかったり、トップに黒澤氏の名が上げられていたり最後に来ていたり、という表記の違い。ずっと疑問に思っていたのだが、それらは貢献度などによる意味はまったくなく、脚本執筆の最後を締めくくったのが共同執筆者の誰か、による違いだけという意外な事実。これも驚かされた。

そのずばぬけた透視眼ならでは、愛に満ちた著者の指摘は「影武者」や「乱」に対しても向けられる。他では見ることができない角度の分析である。

何はともあれ、すばらしい本と出会ってこの週末はずいぶんと得をした。(最近視力が落ち過ぎて、なんとルーペバイザーで読んだ!!)

企画者は是非読婿とをお勧めする。

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SIGN(映画)

昨日O氏から聞いて、さっそく今日買ってきたのが、メル・ギブソン主演の「サイン」。公開当時のCMが「ミステリーサークル」の映画。

一つだけ見たいシーンがある、というだけの理由で買ってきた。どんな映画かさっぱり想像がつかなかったし、公開当時の評判もあまり高くなかったような印象があるしで、まったく何も期待しないで見た。

そうか、こんな内容だったのか・・。それにしてもメル・ギブソンという役者はうまいんだなぁ・・。デビュー作である「マッドマックス」を渋谷の文化会館で観たのは高校生のときだ。期待せずに行って、ハマってしまい、映画館では合計3回見た。そのあと公開された類似品的な「エクスターミネイター」というB級もその勢いで2回みた。(これはこの話とは無関係だが)

それ以来メル・ギブソンのことを、オーストラリア出身のマッチョなアクションスター、と決め付けていた節がある。今日それが完全に覆った。

今回は妻の事故死に絶望し信仰を捨てた元神父の役である。主人公の信仰を試すようなテーマの映画だ。(笑)

ワンマン的につくられた映画なので、特典映像に入っているメイキングもなかなかユニークでおもしろかった。監督のシャマランという人。才能があって頭のいい人だけど、しかし、何かキャラクタ的に足りない気がするなぁ・・という気もする。

まだ見ていない人に、ちょっとだけお勧めしてもいい映画だと思った。期待                 ていないで見ると、いいことがあるものだ。

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ムカつくからといっていじめるのはやめよう

ムカつくタイプというのが誰しにもあって、そういうヤツをみるとムショウに苛(いじ)めたくなる本性が人間にはある。

自分の手をなるだけ汚さずに、ムカつく相手を徹底的に苛めることができたら、それはさぞや気持ちいいにちがいない・・。

これだけ聞くと、「なんて酷い考えなんだ!?」となるわけだが、そんなテレビ商法がある。昼バラがそれだ。確信犯的に、ばれないように、テレビはゆっくりと「ムショウに苛めたくなるタイプ」を作ってゆく。よくよく観察すると、それとなくわかるから面白い。そして、そのポテンシャルが沸点に達したときに、ちょっとばかり何かをしでかした事実を針小棒大につまんでみせる。そうなったらあとは、「これみよ」とばかりに鉄拳制裁を加えればいいのだ。もちあげておとす、これ以上の基本形はない。そのための種まきには余念がない。

獲物が現れたらカメラにレポーターはほとんど写らないから、できるだけ相手が不愉快になるようなちゃちゃをいれればいい。もし相手が激怒するようなことがあれば、映像としては最高である。そのおかげでニュース性はどんどんとで増えてくるのだから。

そいつが怒っている対象がレポーターであっても、映像にはまるで視聴者に怒っているように見えるからおもしろくてやめられない。あとは、「失礼を国民に謝罪しろ」とコメンターに言わせればいいのである。そのあとのそいつの人生など知ったこっちゃない。

「まずはメディアがその無礼を謝るべきだ」なんてことは口が割けても言ってはいけない。次のコメンターの仕事がこなくなる。

こんな番組を堂々と昼間から流していれば、学校のいじめも多くなるってもんだ。

いったい日本はいつからこんな堕落した国になってきたんだろう?
国全体がメディアのマジックに翻弄されているのではないか・・・・。

「ペンは剣より強し」ならぬ「カメラは良識より強し」の時代である・・・などなど、風邪でたまに休むと、そんな気持ちになってしまう番組を目にするわけである。

風邪で休んでも昼のテレビは見ないほうがいいよ。うっかり見てしまうことは苛めに参加することなのだから・・。

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池袋のデジタル行商

Hさんとの付き合いはかれこれ15年になる。
グラフィックでいつも助けてくれる恩人だ。
僕より一つ二つ年上だったはずだから、もういい年だ。

いまも彼に、ちょっとかわった仕事をお願いしていて、定期的に会社に来ていただいている。
会議室でパソコンをたちあげ、ネットを駆使し、あちこちからそれらしきデザインをあつめてその場でみせてくれる彼は、かつてでいうとマックおたく、いまでいうデジタルフェチ。

そんな彼は、毎回なにかあたらしいものを持ってきては僕にみせびらかしてゆく。それがまるでジャパネットタカタのデモンストレーターのようにうまい。

昨年の四半期でいうと、WindowsモードのMacをさっそく持ち込んだり、へんてこなソフトを詰め込んだ発売直後のiPodTouchをもってきたり・・・・昨年秋に彼が見せびらかしていったのは、マックブックプロとfoma 904iのハイスピード・データ接続。3.6Mbpsでパケホーダイだから、これはいいとなった。

僕は早速ドコモショップに赴き、女性店員にこのPC接続のパケホーダイへの変更を依頼するも、「PC接続では従量制しかない」とのこと。

すったもんだして退散し、H氏にこのことを返すと、なんてことはない、H氏は従量課金で高額な請求を受けていたことが判明。プロのデジタル行商としてこの勘違いはかなりの不名誉(?)だったようである。

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そんなH氏の新アイテムの「みせびらかし」が、僕のひそやかな楽しみになっている。一昨日はそれまで使っていた904iをPC専用機(要するにFomaカード)にして汚名挽回を図った。ついでに、新アイテム「富士通の持ち歩きスキャナー」を見せびらかしていった。出先で配布された書類はその場で読み込んでPDF化するのだという。

その執念は見上げた根性で、出先にスキャナーまで持っていくか? と考えるとまったく呆れたおじさんである。(笑)

こんなおじさんは、しかし仕事そのものもさることながら、ドキュメント管理がしっかりとしていて、過去に依頼のデータもちゃんと保管してくれている。それが仕事の信頼性になっている。

その恩恵にあやかっている僕らはやっぱ、笑っちゃいけないんだろうな・・
徹底しているから、しっかりできるんだろうな。
要するにこの変なおじさんは、デジタル世界の金庫番なのである。