斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
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アイデアを整理するためのソフトウェ

パソコンの処理能力はずいぶんと進化したけれど、人がどこまでそのアドバンテージを引き出しているかとなると、かなり疑問なのが昨今のPC事情。
「ネットとメールとカメラ付きの携帯電話はもはやPCと同様」なんていう文句を聞くと、「ということはPCはネットとメールとJpeg写真のためのマシンになってしまったのか?」とげんなりきてしまう。
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マックが日本語化されたのが1986年の後半、「漢字talk」という日本語OSが出てからのことである。それまでマックは、大河内勝司氏という人物が一人で開発した「SweetJam」というソフトを英語システムのフォルダー内にコピー(FDなのでインストールとは呼ばない)して、辛うじて日本語環境を実現していた・・そんな時代である。
発売元のA & Aはいまも健在のはずだが、この会社当時は建築ソフトを作っていた。建築設計にマックをユーザーとして使う側だったのだろうが、こんなに経緯から当時のMacユーザーの間では有名になった。
この会社から出た「まるごとWord、まるごとJam」という重厚な装丁の書籍があった。この書籍は文学全集みたいな厚紙の固いボックスに入った本で、内容はというと、いわゆるMS-WordとこのJamを組み合わせて利用するためのノウハウ本だった。だがこの何がすごいかというと、執筆から版下までの行程がすべて(1985年当時の)初代・二代のマックと、このMS-WordとJamだけで制作された、という点であり、いういわばDTP書籍の走りである。
ソフトの開発者でもありこの本の著者でもある大河内氏は「絵を貼ったり表を挿入したり、Wordの機能のすばらしさを披露するためには、まるごと本を作ってしまうことが一番だとおもった」と語ってくれたことがある。
「とくにWordのアウトライン機能」という言葉が氏の口から出たのを強く記憶している。EXCEL1.0がまだ存在せず、表計算は米国Lotus社の(21世紀になってIBMiに買収された) "1-2-3"か、MSのマルチプランという時代。機能はグラフ機能がはいっている分、明らかにLotusが上だった。そんなような当時であるから、日本語ワープロソフトはいわずもがな日本製であることが当然だった。一太郎などの全盛時代はこの前後に訪れる。その時に、氏がMS-Wordのアドバンテージとして口にした「アウトライン機能」という言葉が、心に刺さったのを記憶している。
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ビットマップ画面を持つマックのユーザーにとっての強い味方となるソフトがこの時期米国のハッカープログラマーたちによって次々と生み出されていった。MacroMind社(後のMacroMedia社)のDirector(いまのFLASHです)のさらに前身となるVideoWorksがその代表例だが、そのほかにも名作ソフトがあった。

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△「 自分でアニメを作ろう」それが当時のDirectorの原型であり基本概念。

その一つが、アウトライン・プロセッサーなるソフトだ。これは、おもいつくままキーワードを五月雨(さみだれ)式に打ち込んでゆき、一通りそれが完了した時点でそれらの関連づけをして企画書や計画立案をするというものである。現在のMSのPowerPointとやや用途が似ているように聞こえるが、まったく異なる。
一つのキーワードがオブジェクトとなって、マウスで移動しダイアグラムチャートとなってゆく。(だからマウスがないハードウェアでは出現しにくいソフトの分野であった)。
当時のDOS(Windowsの前身ともいうべきMSのOS)は黒いスクリーンに緑のテキストが表示されるものだったのに対して、Macはフリッカーを恐れず「白」を背景とするスクリーンとして出現した。これは、いまとなっては有名になったジョブスのこだわりで、思考のための「紙」を模倣した結果である。

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△書道をしよう、というソフトも日本の演算星組(社名)から!!! 桐箱に入ったソフトなんて、ほかにない!!
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僕はこのアウトライン・プロセッサーを多用していた。アイデアの断片がキーワードつまり言葉であることが前提であったため、いつしか僕の企画は「ことば」の影響を大きく受けることになってゆくのだが・・。
1997年6月のある日、とある転機をきっかけに、僕はそれまで愛用していたものすべてを変えた。タバコの銘柄はMildSeven FKからMarbolo Mentolへ、パソコンはAppleのPowerBookからVAIO Noteへ、そして仕事の拠点はVIVARIUMという新しい会社へと。
そして、WIndows98ユーザーへとなっていった僕は、アウトラインプロセッサーというツールとはじょじょに疎遠になってゆくのである。
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Windows環境というのはMS Officeを使うための環境、と表現するといい過ぎだろうか? そんな環境に移ってからの僕の思考は、MS環境にそれに影響されるようになっていった。アウトライン的な機能は、MS-Wordがある程度サポートしているのでその範囲で企画作業はしていた。なににもましてWordのメリットは汎用性、である。

ご存知の方も多いだろうが、MS-Wordにはアウトラインという表示モードがある。知ってはいても使うことがない、という人が多いのではないだろうか?だが、これは企画者だったら使わないとかなりもったいない機能である。
ここでいう文章というのは、企画者によってのアイデアの断片であり、いわば文字列である。これがひとつのオブジェクトのように扱われる。いまは写真や絵も同様にサポートされているわけで、これからの情報の順序を入れ替え、上下の主従関係をつけ、関連づけられてゆき企画書として完成されてゆく。昔の「なんとかカード式」みたいなものだ。

僕にとってワードというのは、たとえば本を書くときには
1.アウトラインモードで企画概要(目次案)をつくる
2.その下位に、ラフ肉付けとなる主文を簡単に書く
3.全体の校正を眺めながら順序をいれかえつつ膨らませてゆく。
4.必要箇所に写真を貼付け、レイアウトをする
5.小見出しをつけて出版社に渡す
という使い方をするので、アウトラインモードは、"本当の文章"を書くときも大変貴重な役割を果たす。

だからMSワードというソフトは、ただベタのお礼状を印刷するためのソフトではない、と思っている。それならばフリーのエディターを使った方が軽くて、価格も安くすむ。ワードに備わっている機能を駆使しないぎり、このソフトのコストは元が取れないように思う。
ワードの機能をうまく引き出すとそのまま本が出版できるのだぞ、ということを、冒頭の大河内氏は僕に教えてくれた。だからこの本は僕の書棚に、いまでも大切にしまわれている。そしてときどき、荒いフォント(レーザーフォントはさすがにまだでおらずドットフォントである)ながらも、しっかりとした質感でつくられた本をめくりながら、プログラムから作ってしまった当時の「オールインワン」の思想家たちに思いを馳せる。
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だが、これが「本」ではなく「ゲーム」とか、ネットの「コンテンツメニュー」となると、機能がいまひとつになってくる。上→下へ直線的な構造しかサポートされないので「ここにもどる」という指示が書けない。だからすでに所有しているMS-Wordのアウトラインモード、は使うけれど、別の「アウトラインソフト」を買ってまで使っていなかった。たいしたソフトがないのである。いやいまPCのソフトは、あの当時より退化しているのではないか、と思えるくらい、分野もタイトルも限定されてきていて、それはソフトメーカーの寡占によるものではないかと思っている。ハードの性能の飛躍的向上と比べて、そのアドバンテージが出せていない、という冒頭に戻る理由である。

つづく(次回は最近購入し多用しはじめたアウトラインプロセッサーソフトを紹介する予定でごじゃる)

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青春を返せ(笑)

文化の日あたりの11月初週の週末が、僕のいた大学では学園祭シーズンだった。

だから、この時期にはいつも8ミリ映画の追い込みの頃を思い出す。僕らは、この時期にいつもロケの路上で過ごしていた。
10月というのは、最初はとても優しい顔をしていながら、はしごをはずすようにいきなり寒くなる月だ。夏の真っ盛りのまま頭が止まっているぼんくら学生の僕らは、季節はずれのサーファー崩れみたいな格好のまま、よく夕方プルプル震えていたものだ。

東京の10月の夕刻ってのは夏を追い出すこの独特の匂いがしていて、今でもコンビニやビデオ屋から夕方の路上にでると、一瞬それに気付く。そしてすぐに消えてしまう匂い。なんだかとても切なくて、物悲しい匂いである。

昨日からひどい風邪を引いて、僕もようやく秋服の準備をはじめようと思った。要するに僕は鈍い。学生時代から何も変わっていない。

このまま順当に地球の公転が進むならば、あと2週間くらいすると、街はクリスマス一色になって、なぜかますます寂しい季節になる。
そう、クリスマスってのは、もの悲しい季節なのである、僕にとっては・・。

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青春って言葉がある、死語に近いけれど・・。
学生時代の僕は、テレビの影響で、この「青春」って時期がいつか来るとおもっていた。きれいなガールフレンドと素敵な仲間たちに囲まれて、何かに熱中する日々。

男子校の時代にはそれがなさげだから大学にはいったらと期待していたけれど、そこにもなにもなかった。そうしているうちに就職し、結婚し、独立し、いつしかおじさんとよばれる年齢になった。どこかでこの「青春」とやらとすれ違っていることに気付く。

もし青春が人にかならず一度は訪れるのであれば、僕はそれに気付かないまますれ違ったことになる。だとしたら、どこですれ違ったのだろう? いつ??

そもそも青春ってのはどんな形をしていて、どんな人に訪れるのだろう?熱のある身体と風邪特有の喉の奥の痛みを朦朧と感じながら、平凡で男くさい人生がフラッシュバックしている。

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「一番楽しかったのはいつですか?」
そう聞かれたら、なんと答えるだろう?

おそらく8ミリ映画をとってた大学生の頃かな。学園祭がおわってやる気がすっかりなくなった季節に、万年コタツがある知人の下宿で酒を飲んでたころかなぁ?

コタツがある家はいいなぁ。コタツって、心まで暖かくしてくれる気がする。西武線沿線のF君のアパートが懐かしいなぁ。あの頃は、楽しかったものなぁ・・。

でも、あれが青春だとしたら、僕の人生は、それはそれはとても慎ましいものだったことになる。だって男三人で安酒を飲んでただけだったからね。

青春って、これから訪れるものなのかな?
誰か教えてください!!青春の正体を!!

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メリット

辛くなると電話するI氏という知人がいる。
さっき電話した。

曰く、もう一週間近く、K談社に泊り込んで徹夜で書きモノをしているとのこと。
大丈夫かな?締め切りはとうに過ぎているはずなのに・・。

そう思いながら、自分の筆が煮詰まっていることからくる苦痛が和らいだ。
人間まったく都合がいい生き物だ。
「自分とおなじ境遇の人」といえば聞こえはいいが、要は傷を舐めあってくれる人、もしくは自分より不幸そうな人を探して、自分が楽になりたいだけではないか・・。

人工知能系の行動パターンを考えていていつも気付かされる事実。それは人間が誰かを好きになる、誰かを支持する、誰かに貢献する、そういう行為の動機を細かく分解すると、結局、自分のメリットがある場合に限られる、ということ。これは動物よりは複雑思考をする人間はややわかりにくいだけで、しかし結果として導かれるのが「神の見えざる手」であることに違いはない。ロボットに知能があるようにみせるには、まずは機械に「欲望」を覚えさせないとならない、これが残念ながら、ひとつのポイントである。

「そんなことはない、人は人を愛することができる。メリット・デメリットなんかとは別だ」と僕もいいたいのであるが・・。要するに不都合がメリットを上回れば人と人は離別する。周囲の人間関係を観察していてもこれってかなり明確である。幸い個人個人の価値観のズレがあるから、そして勘違いもあるから、辛うじて社会のバランスを取ってくれいるだけで。

I氏との会話で、僕の気持ちは間違えなく和らいだ。そしてI氏のことをますます好きになった。でもこれってね、I氏のことが好きなのではなくて、自分の苦痛を和らげてくれる人が好きなだけなんだろう、と思ってしまう僕は、所詮自分がいちばん可愛い煩悩のかたまりである。

煩悩を捨てるってことが聖人に近づくための第一歩だ、という考え方は、この意味で「正」なのかな・・・。すこし悲しい結論だけれど・・。

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神楽坂

今日は天気がいいので、日中、神楽坂にいった。

かわいい女の子をみつけた。

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(Leica M8+Noctilux F 1.0 /50mm開放 自動露出)

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小さい毛ガニの運命

すしざんまい、では、かに汁は500円。
みてのとおり、小毛ガニがまるまる入っている。

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築地などにいくとよくわかるのだけれど、小さい毛ガニは肉が少なく食べにくいので二束三文みたいな値段で売られている。いわゆる「味噌汁用」ってやつだ。ちなみにもうひとまわり大きくなると、その価格は5000円を越えはじめる。

で、すいざんまいで出される味噌汁に入ったこの毛ガニの肉を、箸でつついて食べている客を見かけることは滅多にない。わずかなカニミソをたべておわり。つまりこの毛ガニは、いわば視覚演出的な味噌汁のトッピングになるための運命を辿ることになる。

「捕ったら小さくて値段がつかない」などという毛ガニを、捕りたくて捕ってる漁師さんはおそらくいないだろう。 ただそのまま海に捨てるよりは二束三文でも値がつくから、というのが実情だろう。多少なりともそこに需要があるのだから。その小毛ガニをこんな形で"処分"する僕らの食行為は、日本語では「贅沢」とはよばず、「無駄」と呼ぶ。

この二者は似ていて大きく違うものだ。昭和の人はこの違いをよく心得ていて、他界した僕の母なんかは三重の城下町育ちだから贅沢を好んだが、貧乏サラリーマンに嫁いだため無駄を徹底して嫌っていた。

僕は、これがまっとうな感性である、と思いたいし、セレブな場でも照れずにそう口にしてゆきたい。若い世代がこの二者を混合しないように伝えてゆくことは、最後の飽食の時代を過ごす僕らにとってとても重要な使命だ。

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すこし宣伝めいて聞こえるかもしれないが、今日発売になる「シーマン2」のメインの会話の中で、この「無駄」という話題で展開するパートがいくつかある。人間ひとりが生活するためにどれだけの無駄をつくることになるか、をとうとうとシーマンに語らせ、そしてユーザーに質問させた。

説教じみたソフトがあってもいいじゃないか・・そんな気持ちで今回のタイトルはつくったふしがある。環境問題なんて大それた言い方をするつもりはないけれど、実はそこに大きく寄った世界観を「孤島」という形で構築した。閉鎖系の中で、資源は尽きる。これは縮図である。

そこには、ユーザーに媚ってばかりじゃゲームはいつまでも文化にならない、そんな生意気な気持ちが45歳にもなると芽生えてくるという背景がある。

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内藤VS亀田の試合について

おくればせながら、12日の内藤選手と亀田選手の世界王座戦について。

これまでの亀田家の動向に、僕は右だ左だとマスコミの煽りに翻弄されていたただの視聴者だった。この試合を生放送で視聴することができなかった僕としては、だから試合が果たしてどんなものだったのか、冷静な見解を欲してネット上の記事を探していた。テレビやネットのトップに溢れる報道はどれも国民感情を煽るようなところがあって、ともすると客観性を欠いていたように見えるから。

生で試合を観ていないからこそわかったこと、それは、どの主要メディアも「嫌われ者を全国民で徹底的に排除しろ」みたいなノリが強く出過ぎてしまって、残念ながらそれ以上の情報やたいした分析がない、ということ。まるですべてが芸能ゴシップ記事化しているように見えた。そういう記事は、おもしろおかしく書かれているようで、実のところ得られるものがあまりなかった。

ネットであれこれと調べているうちに、一番冷静にこの試合への「見解」を示してくれているように思えたプログを見つけたのだがそれは、タレントの、なべやかん氏のものだった。(こちせも、おくればせながらですが)

http://blog.livedoor.jp/yakannabe/archives/50737803.html#comments

今回の試合後報道は、スポーツというイベント報道のあり方についていろいろなことを教えてくれた気がする。

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ハッセルブラッド503CWDの使い心地

ここ3日間ほど、Hasselblad503CWDを試用中。

一眼レフだが、左右反転ファインダーは慣れるまで時間がかかるぞ。

ピントもなかなか一筋縄ではいかないし、普通の光量だと開放気味でもシャッター速度は遅くしないと写らない。「写らない」ということがその場でわかることはデジタルのありがたさなのだけれどね。

ポートレートが撮りたくて、あちこち人の顔をとりまくっています。いずれ紹介します。

追記

こちら、モデルはS君です。CMと映像関係がんばってくれました。A_9434mpnp

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Hasselblad 503 CWD Digital

L9992692

ついに、待ちに待ったCCDで受像するHasselBlad。

これは、しかし中版と呼んでいいんだろうか? 正方形の1600万画素。

ま、いいんだろう・・・・。

高橋君、素敵なバースデープレゼントを扶助してくれてありがとう!!(笑)

モデル第一号はオサムだったよ。築地にて。

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シーマン2のテレビCMが

シーマン2のテレビCMが始まったらしい、僕はまだぜんせん見ていないけれど・・。

どんなの流れてんのでしょうか?スポットは細かいからエアチェック不能です。

実はこの週末は旅行の予定だっだのだけど、結局全キャン、東京でぽつんと雑務をしている僕なのであるが、そこに知人から「CMみたよ」とのメールやメッセンジャーあり。

いつどこで見れるんですか?>セガの今井君、佐々木さん

www.seaman.tv
もさっき見たけれど、ずいぶんと様変わりしたなぁ。ずいぶんと立派だ。プロの仕業に違いない。笑

ところでサイトのゲーム情報ではあちこちに「斉藤由多加」という文字があるけれど、いうまでもなく、このソフトを開発したメンバーはたくさんいまして、メインプログラマーは阿草さん、グラフィックの永井君、松田君、スクリプトでがんばった田辺君、小西君、大橋君をはじめたくさんのスクリプター諸君、あとAI関係は出口君、小澤君、企画まわりで立花君、最上君、ほかにも数え切れない人がたくさんいる。その集合体であるチームのメンバーがつくりましたので念のため。それからセガのデバグチームの方々も相当なエネルギーを(ここまで長期は入れたくなかったろうに)注いでくれました。

僕は何をしていたかというと、最後のデバッグ5ヶ月は金繰りと、ただ胃を痛くしていただけ、あとセリフのバグ対応作業、くらいかな。くわしくはこちらのBlogのあちこちで・・・。

不出来なところもいろいろあるだろうけれど、まーどうなんでしょうかね、買ってもらってもいいかもしれないですね。もし買うのであれば、少しでも多くのものをゲットしてほしいから、正直、予約特典のCDも手に入れてほしい。「あわない」っていう人もいていいと思うし、なにせ色のつよいゲームですからね。

あと、正式サポートはされないだろうケド、シーマイクはUSBでSKYPEやYahooなどの音声チャットにも使えるんで、もってても再利用価値大だと思います。

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リセットのコスト

人間は、定期的に自分をリセットする行為が必要だ。それまでの自分をばっさりと切り捨てて、真新しい自分と出会う、そういう意味でのリセット。ちょうど失恋した女性が、髪型を変えたり、長期の海外旅行で昔のボーイフレンドを忘れる、といったような・・。

過去をばっさり断ち切るには、景色を変える必要がある。だからそれには「廃棄物処理」にも似たエネルギーとコストがかかるものだ。所詮人間の脳みそなんてそうそう変わってくれるものではないから、こういう行為でもしないと、煮詰まった挙句に、枯渇した自己の否定に矛先が向いてくる。これは避けないとまずい。

学生時代はそういうリセットが定期的に、そして自動的に僕らを訪れた。同窓生たちとの別れと、見知らぬクラスメートたちとの出会い。インクのにおいがプンプンする新しい教科書と、あたらしい制服、そして見慣れぬ校舎が自分の新しい門出を演出する。「きまりごと」だから当たり前のようにしてきたけど、「脱皮」という一大イベントには家族ぐるみで大変なエネルギーを費やしてきた。

しかし大人になってくるにつれいろいろなものを所有するようになる。だから脱皮のタイミングってのが、どんどんと減ってくる。とくに自分で何かを営んでいる人は、サラリーマンのような転勤とか転職という機がない。だからあちこちで歓送迎会をやっているのをみるとうらやましく思えてくる。事業をたたんで、人間関係を変えて、住まいも移る、なんてことがあるとすれば、それは「夜逃げ」くらいだ()。もし自分をたちきりたいなら、意図的になにかを行わない限り何も変わらない。

僕たちは日々見慣れた景色の中で生きている。そのいつもの景色の中に、たとえば昨日や先週や先月の痕跡がたくさん残っていて、そこにはいいこともわるいこともぜんぶ含まれている。そんな景色をかえてしまわない限り、しがらみの記憶を断ち切ることができないものだ。

そんな中で「はやくリセットして新しい企画に取り掛かってください」というリクエストがくる。言葉で言うのは簡単だけど、この「リセット」というのはなかなか大変なイベントだ。

日々というのは瓦屋根のように前後関係を持っている。先々月に納品した仕事の入金を待ちながら意識をリセットする、なんてできるものではない。

僕の人生で新機軸を企画した時期というのは、きまって周囲の景色ががらりと変わったときだった。ヒットタイトルが人生の転機とかぶっていたのは偶然ではないと思えてくる。脱サラしたり海外に移転したり、といった転機がそこにあった。そしてそういう環境をつくるためにけっこうなコストとエネルギーがかかっていた。その名目は「引越し代」とか「立ち上げ費用」であって「企画」とは無関係に見えるけれど、とても重要なことだったと今にして思う。

だけど一方で、こんなことを繰り返していて会社経営なんかできるわけがない。「転石苔をむさず」なんてことになる。

なもんだから、新しい企画を立てる、という仕事は過去をばっさり捨て去らならとならない、という点で、事業を営むことと背反している気がする。「新」という言葉ではじまることは、それくらい無駄な(?)金がかかるものだ。自分をリセットするという「膨大なコスト」。

「開発にいくらかかる?」ってのが常套句であるゲーム業界は、実は企画にあまり敬意を払わない。敬意はともかく金は払わない。あくまで開発の付属品、それが企画である。もし「企画にいくらかかる」なんてことを聞いてくる人がいたら大した人にちがいない。"ふつうの人"は企画をただでできると思っているふしがあるから。

だから企画者は開発チームの一部でいないと生活できない構造がこの業界にはある。それが肝心の企画の幅をせばめてしまう。

それでも前に進まないとならない僕らは消耗品なんだと思う、文字どおり。

でもそれでいいのかもしれない。

ゲームなんかよりももっと厳しい環境にあった先人の作家たちは、それらのさまを「自分の血を売る商売」なんて表現したくらいなのだからね。