斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
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W先生が亡くなられました

W先生といえば、知る人ぞ知る、日本の性転換手術の一人者である。
知人が何度か誘ってくれたのだが僕はお会いすることがないまま今日に至っている。

そのW先生が先週の木曜日に亡くなられたそうだ。
後始末などのために氏と旧知の仲である僕の友人は弁護士をつれて今日も大阪にいったきりだ。

ごく最近日本でも戸籍の変更が認められたが、フィリピンでは以前から性転換認められてきた。そのおかげでフィリピンの美人(?)ニューハーフは日本で男性と結婚することができる。それをよく思わない日本国籍とフィリピン国籍のニューハーフの対立が激化(??)し、昭和の時代に一斉を風靡したいまはなき有名ゲイバーなどでもそういった派閥がショーの構成などに大きく影響していると当時は愚痴まじりにママ(もと男性)から聞かされたものだ。

日本は性転換手術は表向き、認められていないと聞く(くわしい話はいまだに僕もよくわからない)。だから性転換手術を希望する日本人は、タイだとかシンガポールに単身で渡航し、生きるか死ぬかの危険な手術を受けて退院後帰国する。

W先生はそんな日本において、ブラックジャックさながらに、日本国内での性転換手術を一手に引き受けてきた人物である。認められていない手術をしている医師がなぜ当局から訴追されないのか、についてはよくわからない。性同一性障害の人への救済という点でこれがいいことなのか、あるいは違法が故に重罪であるのか、僕にはさっぱりわからない。
ひとつだけ明らかなこと、それはW先生の存在はこの世界ではきわめて有名であるということと、その医療行為に対して当局から法的な手段が講じられたことがない、ということ。

日本というのはルールがグレーな国である。
保健所の手入れでソープランドにコンドームが置かれているのが発見されると処罰の対象になるという話をきいたことがある。日本当局の解釈ではソープランドというのはあくまで"浴場"にすぎないという扱いだからだそうだ。
この国にはよくわからないことが多すぎる。

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追伸 故人のご冥福を心よりお祈りします

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時代のイコン

ここのところ妻とはドライブがてらのランチが週末の日課になっているが、今日は桂花ラーメンを食べに新宿にいった。

そのついでということで、新大久保にあるビンテージギターショップに立ち寄った(実はこっちが本当の目的だったのだが)。

アメリカの好景気と中国のf超バブル景気から、GIibsonのOLDモデルは、ここのところマーケットでの価格が急騰し日本がバブル時代に保有していたコレクションは海外流出しているとのこと。58年のレスポール(GoldTop)にいたっては、店頭にあるもので840万円、程度がさらにいいものはバックヤードで値段がまだついておらず、1300万円ほどになる予定とのこと。

これは、なんというか、ロックギターのストラデバリウス化ではないか。

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帰りの車中で突然Queenが聞きたくなって、後部座席をあさっていたらオペラ座の夜があったので、かけてみる。
Queenのギタリスト、ブライアン・メイのギターは、GibsonでもFenderでもない、自作のモデルである。僕の記憶が正しければ、若き頃、インテリのお父さんと共同で暖炉の木を削りだしてつくったギターだ、という。タコみたいな形をしている「へんなギター」、それがかもし出すのが、ご存知、世界のQueenのギターサウンドということになる。

彼らがMusicLifeの表紙を飾っていたアイドルグループだった頃、「Queenのギターサウンドは音が玩具みたいだ」と友人の間ではよくけなされていた。たしかにこの自作ギターの音は、低音がごっそりと抜け落ちたような、ちょうどラジカセにエレキを直付けしたような、あるいは拡声器から出てくる音のような歪んだ音が特徴で、ま、あまりロックバンドのレコードでは聞きなれない「へんな音」であることは中学生の頃から気づいていた。

新宿のオムやディスクロード(輸入レコード専門店)で買う海賊版レコードを友人と貸し合ってはあれこれ聴いてみても、Queenのライブはいつも最悪だった。これは録音状態の問題とかそういうことではない。コーラスがないのはいいとしても、フレディは高音部を低く歌うし、演奏はすかすかだしと、エアロとキッスと根本的に違って、なんというかまともに自曲を再現できないのである。それがQueenというバンドだった。要はロックマニアからはバカにされて見られていたけらいがある。

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しかし、フレディがAIDSで死んで、Queenは伝説となってしまった。メインボーカルが不在なったせいで彼らの音楽は封印され、ブライアン・メイのギターサウンドも含めてすべてが時代のイコンとなった。

そして21世紀、Queenは復活した。なんだかんだといわれながらも、Queenを聞いて育った人は少なくなかったのである。彼らの遺伝子にQueenのサウンドは定着していた。多くのミュージシャンにカバーされ、本家よりは格段にうまいパフォーマンスが続々とされるようになったのである。

そうなってくると「だめだ」「よくない」といわれていたものも、徐々に「それがいいんだよ」となる。ブライアン・メイのギタープレイもコピーの対象となり、ライセンスコピーもののギターがショップで時々置いてあるのをいまだにみかける。人間の価値観なんていい加減なものである。

Gibsonのオールドだって、音でいえば、いまの物に劣らないわけがない。道具というのは進化するものだ。だが、時代のせいで絶対数がなくなるとなると値段が付きはじめ、コレクションとなりはじめる。そうなると不思議に「この音がいいんだ」といつのまにかなってしまうのだ。

僕たちは多感な子供の頃に見聞きしたものに影響されて大人になった。その時のヒーローは、たとえどんなに指摘をされたってヒーローであることには違いがない。それと同じだ。

いまGibsonのオールドのサンバーストモデルは世界市場で3000万円を超え始めているという。ジミーペイジを聞いて育った少年たちが経済的に余裕のあるオヤジとなり、その時の音と夢を求めて大金を積んでくるというのは、いやらしいというよりも微笑ましいことに思える。

「当時胸をときめかせたあこがれのビンテージGibosnを買うために株式公開を目指すんだ!!」
なんてIT経営者がいたら、意外に意気投合してしまうんだろうな・・。

カメラだ、万年筆だ、ビンテージギターだ、と最近週末になると往年のアナログアイテム偵察に出かける僕についてきては、店内のマニアックな中年客と店員とのやりとりをいやおうなしに聞いている僕の妻は、「そういうオジサンたちの熱中振りがとてもおかしい」、と、いつもうれしそうに言うのである。

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言葉の力、言葉の限界 その4

前回の、全体を把握するため・・・」という話の続きである。

言葉というのは、もしかしたら、対象物がそこにない場合にのみ、その力を発揮する魔法ではないか、と思えることがある。

目の前にある真紅のバラ。
「このバラは赤い」
「このバラには棘がある」
「バラはいま二本ある」

すべての言葉は、そのバラの横では実に非力な形容にすぎない。千の表現を尽くしたとしても・・・。

しかしそのバラの姿からは決して知りえることができないこと。
「このバラは、値段が高い」
「このバラの棘には実は毒がある」
「母は生前にこのバラのことをとても愛していた」
「このバラはかわいい」

そこに存在し得ない情報を伝達する試みにおいては、言葉は実に雄弁である。その瞬間バラは完全に沈黙する・・・。

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こんなことに考えを巡らせていると、ひとつの仮説が頭をもたげてくるのである。

「言葉と、その対象物というのは、どんなに労を尽くしても互いに交差することのない異相の関係ではないだろうか?」と。
ちょうど、「夢」と「現実」のように、「光」と「音」のように、あるいは「右脳」と「左脳」のように、決してあいまみえることのない異なる空間の関係。

人間は、目から得た情報を耳から人に伝えようとするときに、変換作業をおこなう。それを記述表現とよぶならば、耳から入った情報を再構成し映像化を試みることを解釈という。
そいてこのような変換作業を辿る以上、人間のコミュニケーションにおける誤解は不可避である。 いやむしろ、この個人差による誤差とその修正作業こそが時として「おもしろさ」という嗜好となり、その先にある「芸術性」となってゆくのではないだろうか? 

正確であることよりも、より高度な知性を必要とするエラー修正作業を好む性癖が、どうやら人間にはあるようなのだ、ちょうど煙草やウォッカや唐辛子やSMプレーや、その他不健康ギリギリの演出するすべてのスパイスを楽しむように・・。

前々回の大江健三郎氏の選評にあった長嶋氏の表現も、その範囲ギリギリ加減の技法として評価されているのではないかと思う。

携帯電話で道案内を試みたときのまどろこしさを経験するたび、あるいは好きな香水の匂いを人に説明するとき、そしてまた、ゲームのアイデアを開発者に伝えようとするたびに、絶望的な思いとともに僕はこの「誤解」との共生を問われているように思えてならない。

つづく

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言葉の力、言葉の限界 その3

つまるところことば、ってなんだろう?
万能でないことはわかっているのだが・・。

「ことばにするだけなら簡単」
「口でいうのは誰でも出来る」
「言葉だけでは信用できない・・・・」

ことば、は実態を伴わない表層的な表現の象徴につかわれることがある。
誰もがたやす口にするこの"ことば"というのは、
もっとも低位のコミュニケーション方法なのか?

「ちゃんと言葉にしなきゃだめ」
「わかるように説明してくれよ」
「ちゃんと話しをしなきゃ」

かくもいう。
ことばというのは人と人がつながるためのもっとも重要な手段なのか?

もし、僕に言葉がなかったら、動物のように半径30m以内でおきたことだけを認識し、「愛」とか「裏切り」とか「嫉妬」とか、実態がまるでない、ちょうど概念などのような存在を知らないまま物質の中で生きていくことになるのだろう。いや、そこに実体があったとしても、いわれないと気付かないものは存在しないに等しい。たとえば、あわびととこぶしの違い。あるいは伊勢海老とロブスターの違い。言葉で言われない限り、僕は気付くこともないまま一生をおわるにちがいない・・あ、いかん、話題がそれた・・。

新作ゲームのアイデアなんてものは、まさに実体がないものの象徴である。おもさも形もないだけでなく、頭の中にあるだけ。いや、本当にそこに何かが存在するのかすらも疑わしい。デカルトのコギトの公理ではないが、「われ思う、故にわれあり」と主張する以外、証明する術がないのが概念である・・。

そんなやっかいなものの具現化を試みるという愚行に及ぶとき、そして最悪なことに、そこに他人の協力が必要なとき、言葉で伝える以外に方法があるというのだろうか? 「そこにないもの」を形容するためには、言葉を使わずに進む方法はあるのだろうか・・。

ところが、である。、言葉の力をここまで書いておきながら矛盾するように聞こえるだろうが、仕事場で僕は口だけでモノゴトを連絡する人のことをひどく嫌うのである。
「全体がわかるドキュメントでくれ」
スタッフにはよくそういうのである。
その話をしようと思う。

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ことゲーム業界の人間は、言葉への感心が低い。おそらくはかつてのゲーム作品が、言葉をはるかに超えた表現力と達成感を持ち合わせてきた、そのファン世代が集まってきているからだろう。たしかに優れたゲーム作品ほど言葉などには依存していない。独自の視覚言語体系を作り出している、それが優れたゲームである。だが、その制作工程となると、話はまったく別である。

会社の立ち話で、「あ、斉藤さん、あの、こないだの描画のバグの件、うまくいかなそうなんですが、もういっこの案でいきますか?」

突然そう話しかけてくるスタッフが、いたことがある(最近のスタッフは理解をしてくれたおかげでめっきり少なくなったけど)。

言葉というのは、けっして全体を見せてくれない。
その状態のまま、OKなどとうかつに答えると、その時の説明に含まれていない別の事象があとで頭をもたげてくる。
それがどんなものか? 映画でたとえると次のようなものである。

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「斉藤さん、依頼のあったエンディング場面ですが、要望どおりのものが撮れましたよ」
「ほんと? 夕日の富士山をバックに馬が疾走している戦国の絵だよ?」
「ええ、夕日と富士山、あと馬ですよね?ばっちりです」
「おお、そうか、ぼくの欲しい風景が撮れたと考えていいんだね?」
「そう思います」

そう聞いて安心してしまう。
が、後日現像されてきた映像をみて、愕然とする。
「おい、空に飛行機雲があるじゃないか?」
「あ、まずいすか?」
「まずいよ、だって戦国時代の映像だよ?」
「でも、斉藤さんは、夕日と富士山と馬っていったじゃないですか?」
「でも戦国時代に、飛行機雲はないだろう!?」
「最初からちゃんとそういってくださいよ・・。そういうんなら取り直してきますけど・・・」
不満げに若いスタッフはそういい、最後に一言「ロケ費またかかりますよ。いいですね?」
と吐き捨てるように去ってゆく。

どの業界であっても古株と若手のぶつかりあいなんて、みなこの手の話ではないだろうか?
かくいう僕もここ2-3年、この類のミスに苛まされてきた。

「それくらいのことわかるだろ!? すこしは頭を働かせろよ」
それが古株の言い分である。
いっぽう若手はというと
「いわれたとおりやったのに、わがまますぎる」
と愚痴をこぼす。

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トマス・ハリスの"ハンニバル"の中の印象的な表現の中にこんな表現があった。
「そんなときハンニバル・レクターは記憶の宮殿を・・」(たぶんこんな感じ)
記憶の宮殿・・・、そう、僕たちは意識という宮殿の中にすんでいる。

うけとった情報を解凍し、宮殿のどの位置に配置すべき部屋なのか、相手の話を一生懸命解釈して位置づけしようとする。

説明の上手な人は、その場所がどこかを最初に話してくれる。下手な人は、突然にごく断片的な一部屋の情報だけを取り出して説明をはじめる。そして唐突に「これどうですか?」と聞かれても、人間は当然のようにわからないのである。わからないまま、でもなんとか判ろうとして話を聞き続ける。そのタイミングの切れ目がわからないまま、わかった気になってしまうことがある。やがて配置場所が本当に正しい場所だったのか、その答えがわかるのははるかあとになって、つまりつまりものが形になってきた竣工式の日、である。

言葉というのは、論理的であるが、3秒後には空に消えてなくなる。
断片的に、かつ時系列にしか表現できないせいで、全体がみえない。

だから、大切なことほど、「全体」として見たくなる。

全体を示すのは、言葉ではなく、図だけでもなく、グラフだけでもなく・・・・となると、それは何だということになる。

今日はかなり眠いので、次回にそのあたりを考えてみたいと思うのである。

つづく

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言葉の力、言葉の限界 その2

前回の続きになるが、「混沌とつまらないゲーム」は、誰がどうやってその問題点を顕在化させ、それをいつどういう方向に帰結させることで修正とするか、それが命綱であるという話である。

そもそもいちばんやっかいなのは、何がどうつまらないか、それをきちんと把握できないとなにもはじまらないこと。もしそれが理解可能な言葉で表現されない限り、内在する問題は問題と認識されず、ややもするとその手の発言はチームを混沌へと向かわせるだけの効果しかない。

それはまるで砂の中から砂金を発見する作業・・・・とはまったく違う。
むしろ、同じ種類の砂だと思っていたものの中に、辞典には載っていない新種の砂を発見することに近い。つまり発見は「目」ではなく、「認知」にかかってくる。それがバグ探しとの最大の違いである。

名前の無いものを発見するというのは、とてもむずかしいことだ。
それに名前をつけ、あたかもそれまで存在すらしかなったものを人々に紹介する行為は、感受性というよりも、それをことばにする論理性、そしてそのための勇気とあつかましさが必要となる行為だ。こう書くとたいそうなことに聞こえるかもしれないが、創作物における問題発見というのはそういうものである。そもそも創作物なんてものは、その中に問題があっても作者以外には誰も気付かないし、そして誰も困らないものなのだから。バグとはその点で大きく違う。

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「ロンドンは霧の街」ととある詩人が広く紹介するまで、ロンドンに対する人々の意識の中に霧は存在しなかった、という話を読んだことがある。
僕らの世代も、ネスカフェのCMで始めて「霧の街ロンドン」というセリフを聞いた。それ以来、ロンドンを舞台にした映画はいつも天気がパッとしないことに気付いた。それまでは気付かなかったのだ。

僕はときどき思うことがある。
ゲームのディレクターとは、もしかしたらコピーライターに似ている仕事ではないか、と。混沌とした複雑の中に、規則性を発見しそれをことばで表現する力をもっていなければならない、という点で。

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L9990058

金曜日に、長嶋有氏が受賞した第一回大江健三郎賞をの記念対談があった。
大江氏と長嶋氏の対談でおもしろかったのは、大江氏の長嶋作品(ここでは受賞作の「夕子ちゃんの近道」という作品)内での表現のことだった。いま手元にある「群像6月号」に掲載されている大江氏の選評には以下のように表現されている。

「たとえばかれは、こう書きます。<<窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶか分からないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿にゆれている。>> 私もまさに同じ物体を見て(俳人が新鮮な書物を前にするたび、俳句にしようとあれこれ短い言葉を探すはずであるように)小説に取り込もうと試みたことがあるのですぐ思い当たりました。そしていま、あれをなんと呼ぶか分からないが とするのはまさに正確な表現であり、しかも作者がそれを自分の文体にしていることに感嘆します。」(以上 群像6月号大江健三郎賞選評より引用 なお文内傍点部は表記不能につき省略させていただいた)

僕たちは"ことぱでない"創作対象に取り組むための道具としてことばを用いている。重さも形もない"概念"を、ああだ、こうだ、とやりとり可能なフォームとするために、無理にでも名前をつけ、「それ」を口にしたり叫んだりできるモノにする。そしてその意味がおおよそ共有されるところを見計らって、次にその概念に番号をつけて「流通可能な形」にまでする。こうして時間をかけながらチームでの共通認識をつくらないと、仕事はすすまない、いや崩壊すらする。だから関係者の認知レベル(といっていいかどうかはわからないが)がバラバラであるほど、プロジェクトは難航する危険性が高い。

企画者(世代的には現場のクリエーターよりも2世代近く上であったりするわけだが)は、表現したいものを「洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶか分からないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のもの」という表現をすると、数ヵ月後に、風情だけでなく意味合いまでもが似て非なる、それはまるで「郷ひろみ」と「若人あきら」くらいに違いながら、ことばに帰結した要素としては完全合致したものが製作現場からあがってくるのである。絵やジェスチャーで事前説明したとしても、これは防げたもんじゃない。不可避なものとするのが適切に思える。

そんなときに、誰かが出来上がりサンプルを見て「これちょっとちがうぞ」と言い出さない限り、この二者は、違いがまったく認識されないまま何人もの目の前を通過してゆくのである。完成へ向かう暴走列車になにくわぬ顔をして座っていくことになる。

そうなる前に誰かが、「洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶか分からないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のもの」の"旧式型"と呼ぼうという名前をつけないとならない。

そんな思いの真っ只中にいた僕は、このすばらしい対談の内容はまったく無関係なところで突然いたたまれなくなり、そしてせっかく招いていただいたパーティーは中座してしまった次第である。長嶋氏に直接お祝いの言葉を言えなかった事をすこしだけ悔やみつつ。

この短く、そしてフォントの表現力も稚拙なBLOGでどこまで表現できるかまったく自信がないので、今日はここまで書いて終ることにするけれど、ひとつだけ僕が長嶋氏をうらやましく思ったこと、それは、小説の執筆は一人で行うことができる創作活動、という点である。ゲームは、創作と同時進行で、それらを機械語に翻訳する、というとてつもなく大きな共同作業であるのに対して、それはなんともうらやましい限りである。むろん僕は小説家がどれだけの苦労をして創作をしているか、まるでわかっていないのであるが。

考えてみると、小説が他国語に翻訳されることになったときに、そ外国語をマスターしていないが故の、なかなかかみ合わない作業へのフラストレーションと、そして完成時に感じるであろう翻訳チームへの信頼感と共同作業へのカタルシスは、もしかしたらゲームが完成したときのそれに似てくるのかもしれない・・・。

そういえば、第一回大江健三郎賞の賞品は、「受賞作の他国語への翻訳と海外での刊行」とある・・・。

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言葉の力、言葉の限界 その1

今日の会議で、めずらしくスタッフをきつく叱った。
そのテーマは、「ことばへの畏敬の念がなさすぎる」という内容である。
テーマであることばの力を試すかのように、今日の僕はとうとうと言葉で語り、そしてまちがえを追い詰め、そして霞のように消えてしまいがちな問題の本質を顕在化させようとあがいたつもりである。

さてでは今回の問題の本質とはなにだったのか?
それは、"混沌とした現象"から問題点をしっかりと抽出できているか? そしてそれを伝達し理解させているか、ということである。

ゲーム制作の途中段階で、「つまらない」という状況判明してきたとする。「つまらない」というのは、たとえばファミレスの新作メニューが「まずい」という現象にも似て、サービスとしては致命的である。しかし、「髪の毛がはいっている」とか「腐敗している」といった衛生基準の致命症とはちがい、発売中止となる要因ではない。

デバグもこれにている。食品の衛生基準をクリアせんとするがあまり仕様をすこしづつ封印しつづけてゆくと、衛生基準を満たした味はぱっとしない料理ができあがってくる。しかし往々にして関係者はそれに気付かない。その結果出来上がってきたプログラム群を一般的には「バグのないクソゲー」とよぶ。

だから、プロはどこがで「おい、味がまずくなってきてるぞ」ということに気付き、大きな声で問題提起しなければならない。それこそが料理の価値であり料理人の本業なのだ。

が、やっかいなことに、「味」というのは、美的なセンスであり、質的な価値観であり、ま要するに感性の問題ととらえられやすい。基準が不明確なだけに誰かが言い出さない限り問題が顕在化しない。しかも、大勢のスタッフが関わるチーム作業の真っ只中にいてそれは摩擦を誘発しやすい行為ともいえる。したがってこの問題を顕在化させるためには、感受性だけでなくいささかの勇気が必要となる。

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プログラムというのは、曖昧な完成を、曖昧さを受け付けない機械語に翻訳する作業である。「味がまずい」という感覚的な問題を、具体的に、論理的に分析して、具体策に転換しないかぎりなにも改善しない。

ということは、誰かが、「まずい」という現象からその問題の原因を発見することでそのレベルから脱却する必要である。でないと、問題解決の術に関しては盲目的という点で素人となにもかわらない。つまりこれは難易度の高い発想作業である。

そこで不可欠なことはなにか?、それは「そもそもどんな味にしたかったのか?」という初心である。これがなければ作業は迷走する。

その初心、(ないしは制作の狙い)をまずは自覚し、それとの対比において問題をきっちりと明確化させた上で伝達し、そして改善策にむかって一丸とまとまってゆくには、問題が論理的な「ことば」で表現されなければならない。「まずい」とか「つまらない」といった現象面だけではだめなのである。

この作業は、つまり混沌の中から問題発見をし、それを解決させる方法を論理的な構造体として記述する、つまり非言語→記号への変換行為そのものである。

このプロセスにおいて、説明が不完全、つまり手抜きがあると、とんでもなく大きな二次災害へとつながる危険性がある。

つづく

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人間関係の悩みのポータルサイト出現

15日あたりに、シーマンのサイトがポータルサイトへと大リニュアルする。
僕も、ここで、ゲームクリエーター講座を再開することになる。というか、これまであちこち書いてきたものと新規のものをマージ(統合)して、しっかりまとめに入ろうかと思っている。

ポータルサイトというのはつまり、ゲーム版の「シーマン」にとらわれず、あらゆる人間関係に対する煩悩と悩みへの「意思決定支援サイト」というコンセプト。面白いと思う。

たとえば、「浮気と暴力が絶えないXXXXな彼氏だけど、別れるべきか、厚生させるべきか」なんて悩みに、ユーザーが投票する、なんて機能も(時期は追ってだが)はいってくる。

おもしろいと思う。

というか、かくいう自分たちも、自分自身も、いろいろと、悩みは尽きないし。笑

あと数日でオープン、乞うご期待!!!

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ああ、そういうことするのね

ずるいね。

ま、いいけどさ。

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北京語看板集

北京では、こんなふうに、表現されてます・・・。
カナがあって、よかった・・・>日本語

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△ご存知、世界のスターバックス

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△ご存知、世界のマクドナルド

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△ケンタッキーだけだと、本当は州の名前なんだがなぁ・・・・

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△お相撲さんみたいなローレックス

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△レッドブルは、日本では、これから、かな? P1040684
△まるで強力強壮剤みたいなプリッツだが、むしろ、すごいのはヒダリ上のグリコの当て字である。

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△セガのゲーセンは、世界で健在

P1040839
△ピサハットは、膝法度、でなくて残念

P1040841 
△世界のナイキは、いかにもつよそう

P1040867
△オリンピック、は、字の選択にこめた意味があるのだろうか?

P1040868

△オリンパスです。

P1040842

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サービスの条件

Rentacar

10年ぶりに北京にいった。

クルマを手配して、そのパンフレットをみたらその会社のセールストークとして

1.安全運転
2.ネクタイ着用
3.痰を吐かない

と書いてあった。