前回の、全体を把握するため・・・」という話の続きである。
言葉というのは、もしかしたら、対象物がそこにない場合にのみ、その力を発揮する魔法ではないか、と思えることがある。
目の前にある真紅のバラ。
「このバラは赤い」
「このバラには棘がある」
「バラはいま二本ある」
すべての言葉は、そのバラの横では実に非力な形容にすぎない。千の表現を尽くしたとしても・・・。
しかしそのバラの姿からは決して知りえることができないこと。
「このバラは、値段が高い」
「このバラの棘には実は毒がある」
「母は生前にこのバラのことをとても愛していた」
「このバラはかわいい」
そこに存在し得ない情報を伝達する試みにおいては、言葉は実に雄弁である。その瞬間バラは完全に沈黙する・・・。
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こんなことに考えを巡らせていると、ひとつの仮説が頭をもたげてくるのである。
「言葉と、その対象物というのは、どんなに労を尽くしても互いに交差することのない異相の関係ではないだろうか?」と。
ちょうど、「夢」と「現実」のように、「光」と「音」のように、あるいは「右脳」と「左脳」のように、決してあいまみえることのない異なる空間の関係。
人間は、目から得た情報を耳から人に伝えようとするときに、変換作業をおこなう。それを記述表現とよぶならば、耳から入った情報を再構成し映像化を試みることを解釈という。
そいてこのような変換作業を辿る以上、人間のコミュニケーションにおける誤解は不可避である。 いやむしろ、この個人差による誤差とその修正作業こそが時として「おもしろさ」という嗜好となり、その先にある「芸術性」となってゆくのではないだろうか?
正確であることよりも、より高度な知性を必要とするエラー修正作業を好む性癖が、どうやら人間にはあるようなのだ、ちょうど煙草やウォッカや唐辛子やSMプレーや、その他不健康ギリギリの演出するすべてのスパイスを楽しむように・・。
前々回の大江健三郎氏の選評にあった長嶋氏の表現も、その範囲ギリギリ加減の技法として評価されているのではないかと思う。
携帯電話で道案内を試みたときのまどろこしさを経験するたび、あるいは好きな香水の匂いを人に説明するとき、そしてまた、ゲームのアイデアを開発者に伝えようとするたびに、絶望的な思いとともに僕はこの「誤解」との共生を問われているように思えてならない。
つづく






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