斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
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本を書いています

いま、仕事の合間に、本を書いている。
それがこの上なく楽しい。

仕事の納期、予算、トラブル、会議・・・。
納期が近いが故に胃潰瘍が痛くて体をねじって仕事をしている毎日なのであるが、
文字を書いている時は、大きな空の中を飛び回っているような自由な感覚がある。

その一つは、いよいよ「ゲームクリエーター講座」を大きく加筆修正したもので、これまで目論んできた不毛なトライアルの中から、これはという成功・失敗事例をピックアップしている。商品開発の人とか、企画の人とか、いわゆるゲーム業界でない人に読んでもらいたいなと思っている。

文字で考えをまとめるためには論理的でなければならない。だから自分がモヤモヤと感じてきた経験値を、理路整然とさせる必要がある。かいていて「あ、そういうことだったのか」と発見することすらある。

そういうときこそ、自分のこれまでの試行錯誤にかかっていた靄がサーと晴れ渡り、本質めいた者が見えてくる瞬間である。

温故知新という言葉がある。
過去をしらべて未来の糧にする、という意味である。
その題材として一番実り多き対象は・・・・・自分自身にほかならない。

自分自身の過去を振り返りながら自分の未来の糧になる本でなければ、人が読んで意味があるわけがない。

成功した人が自慢話ばかりのノウハウ本ほどつまらないものはない。
どこかで聞いたことのあるような本をわざわざ出版するほど無駄な行為はない。
僕はうるさい人間であるが、なにはともあれ、自分が読んで、「そうだったのか」と思える本を、完成させたいと思うのである。
そうすれば、他の人も、すこしは楽しんでもらえるような気がするのである。

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創作者よ、PCを捨て街に出でよ

社内を見回すと、ずっとPCに向かっている人がほとんどである。
何をしているのか知らない。
かつてはそれが、「仕事をしてますよ」というアピールだった。

だが、最近はそうではない、と思う。
PCにむかって、どれだけ人間の右脳が活動しているか、はなはだ疑問である。
1984年以来なにも進化していないマウスと、キーボードと、そしておなじみのソフト群。
この環境の、あまりの進化のなさに、いや極論すればその退化に、PCに向かうのをやめよう、と社内でも言い始めている自分がいる。

かつてPCは、創作の道具だった。発展途上ながら、情報のコンストラクション・キットだった。
しかしいまは閲覧の道具であって創作の道具ではなくなっている。

たとえば、容易に行えた、ちょっとしたアニメーションをつくって「うごかしてみる」という行為。あるいは録音した声を加工してメールに貼り付けてみる、なんて行為。いま、このBLOGを見ている貴殿のPCでは、どうやって実現しますか?

1992年あたり、24ドットの身長のタワーの住人(PC用)のシルエットはスタジオ8でドットをデザインし(黒一色だったので充分だったのも事実だけど)、それをハイパーカードで動かして、歩くドット絵の滑らかさをしこしこと試したものだ。

初回のタワーの中に登場する声は、地下鉄駅のアナウンスから、映画館の田中邦衛ばりの音声のまで、これもすべて自分でやった。(商店内のレジの女の子の声だけはKさんの奥さんだったけど) 録音は、PowerBook180とバンドルされていた円形マイク。犬のカーソルがでてくるSoundEditで編集し、エフェクトをかけておわり。わざわざスタジオで撮るようなものじゃない。それで充分だったし、楽しかった。
画面と対話し、企画と創作が並行して進んだ。「つくっている」という手ごたえが僕のpwerBookには溢れていた。
まこんなことができたのも、ハイパーカードといった、マックの時代の環境の話だが。

ここ10年でPCは大衆化し、大方のソフトは市場から淘汰され、ドット絵を描くにはちょうどいいサイズのソフトは消滅し、PhotoShopが巨大なプロのツールとして君臨している。音で遊ぶにも2-3秒で機動するSondEditなどは消えうせ、ProToolsが幅を利かせている。占有メモリーが肥大化し、コマンド数が膨大になり、「ちょっと使う」ための選択肢が、数十万円で購入するセミプロの道具となってしまった。もちろん肌の合うフリーウェアをネット子上で掘り出すという手もあるのだろうが、おおくの一般ユーザーがそんなことをするわけがない。

だから一般ユーザーのハードディスクに入っているのは、バンドル品であるPhotoShop ElelmetとiTunesと、iExplorerと・・・・つまりこれらはすべて情報を閲覧・保管する、いってみれば「プレイヤー」ソフトばかりである。

メールをあけると声が出る仕掛けで人をちょっとおどろかせてやろう、なんて人はすっかりいなくなった。

つまりPCは再生専用のWalkManのような存在になってしまったわけである。ユーザーは「創る」から「探す」へと以降し、メールとせいぜいビジネスマンがPowerPointでつくる、誰が見ても同じようなプレゼンシートの製造機である。これじゃテレビと一緒である。

こうなってくると、PCに向かっているという行為が、「考えている」から「遊んでいる」に近い存在になっていると考えたほうがいいのではないか? 受身専門になってきている、という点で。(無論、プログラマーのようにCPUを商売道具にしている人種は別だが・・。)

だから、企画を志す諸君、それは、商品企画でも、ゲームの企画でもWebのコンセプトでもいいのだが、PCを捨て、紙と万年筆を手にして、街に繰り出してはどうだろうか?
場所はかつての企画者のメッカであった喫茶店でもいい、あるいは学生時代に通った図書館でもいい。ぼつんと自分の頭脳と向き合いさえすれば、それでいい。

業務時間内は自分の席にいなければならない、と思うがあまり、ネットをみながら、なにをやろうとしていたかすらねわからなくなってしまうくらいだったら、PCは君たちの邪魔モノ以外のなにものでもないのである。

右手でペンを持ち、真っ白な紙に向かい、それで何もかけないようだったら、たとえそこにPCがあっても:結果はおなじはずだ。なにせPCはただの機械なのだから。

だったら、意味なくマウスを動かすことよりも原稿用紙の前で髪をかきむしる姿の方が人間的かつ自然体、だと思う・・・・なぜならば、自分がなにも創作を出来ていないのだ、という事実を、白い紙の方がより雄弁に君自身に語ってくれるのだから。

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はしとそばとヌードルとスプーン(ゲームインターフェイス論2)

はしを使って食文化を築いてきた東洋人は、スープを器から直接"すする"習慣がある。西洋人からみると、これはとても野蛮な食べ方だという。音がするし、だいいち犬のように見える、という。

しかし、それはスプーンとナイフから見た価値観の話であって、では「そば」を、音を立てずに、あるいは器に口をつけずに食せ、といわれても、これほどぶざまで困難なものはない。スプーンとフォークでそばを食べろ、といわれても、それはまとも食べられない。趣がないのではなく、うまくたべることができない。なぜならば、そもそもそばというのは箸で食べるものとしてデザインされてきたものだから。箸の観点でみれば、「そば」ほど合理的で洗練された食はないという話である。

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ヌードルという英語があって、これは「麺」という意味に訳されると紹介されているけれど、実際のところ英米でヌードルとはスプーンですくって食すものを指す。スプーンですくってたべる食事はどうなるかというと、おのずとスープの仲間と認識され、ヌードルはその添え物という存在にかわってくる。スプーンでは箸のように直接麺をつまみ上げることが出来ないから、あたりまえの結果である。そうなるとヌードルというのは、麺の浮いたスープという意味のものになってくるのも必然である。

同じような形態の食でも、箸を使う人々にとっては固形物である「麺」が、スプーンだと液体の「スープ」が、おのずとその主役となって完成された結果だと思う。

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麺の例にとどまらず、欧米では、食べ物はカットされない状態で出てくるメニューが多い。和食では刺身のように切られて出てくるわけだが、これもナイフ・フォークと箸の違いによるものであると思われる。ミンチ肉によるハンバーガーがウケたのはナイフがなくても手だけで食べられる肉が好都合だったからにちがいない。

つまり、食文化は、実は道具と緻密にシンクロして完成されてきたわけである。

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話はゲームに移る。
これまでのゲームは、従来型のコントローラ、たとえるならばナイフとフォークだけで発展してきた。そうして生まれてきた食事を「箸」で食っても美味い筈がない。ナイフとフォークでたべるようデザインされたものをわざわざ「箸」で食って美味くなる理由が見当たらないのである。

同様に、wiiコントローラーという新種の道具の登場でうまれてくるゲームタイトルといのうは、これまでのものとは異なる食文化でなければならない。ステーキをナイフで切って食するダイナミズムの模倣ではなく、箸でつまみあげる洗練へとコンセプトを移行させなければ意味がない。

そうすることによってのみ、あたらしい食というのは出現するのであっておそらくは、格闘ゲームも、アドベンチャーも、ただ方向とコマンドを選択するものから、世界観の中に「分け入る」とか「かきわける」といった動作に変わってゆくべきである。それによってもたらされる味は、外見が似ていてもまったくことなる食であるばすなのだから。

ヌードル、とそば、はまったく異なる対象物を指す、という事実は、いわれてみれば当たり前の話であっても、ひとつまちがえると認識されないまま義務教育の教科書に平然と載っていたりする。

それと同様にゲーム業界においても、ユーザー以前にクリエーターまでがそれらを顕在的に認識して取り組むことをせずすべてただの置き換えの発想で済ましてしまうとしたら、世界はヌードルとそばを混同したまま食べ続けるという、暗黒の世界に留まることを意味してしまうにちがいない。

某タイトルをwiiに置き換える作業を外部の開発会社に委託している。
音声によるコマンドをジェスチャーで置き換える、という試みであるが、そのコマンド群をいっさい変化させず、ただ入力方法を置き換える形でいこうという理解があったので、意義を唱えたが、まだあまり理解されないまま進んでいる。

僕の主張していることは、「意味不明のたわごと」のように受け取られているけらいがあって、ちっょとした寂しさを感じている。

「ハードとソフトはともに発展し伸びてゆくものだ」そういうセリフを得意げにスピーチで口にする業界人たちの、話して何割が、この事実に気付いてタイトルを開発しているというのだろうか?

ゲーム業界の行く末は、まだ、決して明るくない。

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サムライことばみたい

自分はやがてはハリウッドで仕事をすることになる、と信じていた学生だったから、英語だけは勉強していた。

タイプライターを買ったのもそんな憧れからだった。プラザー製の中古品で、近所の「売ります買います」欄で見つけたものだった。買ったのが高校生のときか大学に入ってからかは覚えていないが、このタイプライターはいまでも大切にもっている。

おそらくは同級生のだれよりも早くQwerty配列のキーボードをマスターしていた僕は、しかしすでにマックを買った時には"カナうち"になっていた。

なぜカナ入力にしたのか、には理由がある。
キータイプのスピードを可能な限り早めたかったからだ。それ以来ずっとカナ打ちである。

深夜のテレビ番組で、キー入力の速さで圧勝したことがあった。ローマ字だと2文字打たなければならないものが、カナだと一回で済むので簡単に考えてもローマ字打ちの人の二倍のスピードがでることになる。
このおかげで僕は文章を書くのが早い。タイプが速い、という意味ではなく、頭の中でなっていることばが、手が探すキー文字と一致していると、音楽のようにすらすらと文章が書けるのである。余計には滞らない。偶然の産物ではなく、これも努力して習得した技だと思っている。

そういう僕が使うPCはすべて「カナ入力モード」になっているから、誰か別の人物が使用した形跡はすぐにわかる。ローマ字入力から戻していないからである。
逆もまた真なりで、会議室で僕がもちこんだPCを誰かが使おうとすると、「ありゃりゃ」とおもむろにいやな顔をされる。

僕は会社で最年長なもんだから、若い人間たちは、前世代の人を見るような目で「カナ入力だよ・・」と僕仕様を思っているに違いない。カナ打ちというと、みね打ちみたいに、まるでおサムライさんみたいな響きがあるし・・。

しかし、勘違いしてもらっては困るのである。カナ入力の人は、当然のことながらローマ字入力もできるのである。でないと英数字が打てない。

しかし、そんな僕にも悩みがある。
メッセンジャーなどでチャットしていて、
「ありがとうございます。」
と打ちたいところを
「ありがとうございまする」
とミスタイプしてしまうことがあるのである。
スピードが速いので、気がついたときには送信されているから、相手は、ギャグでやっていると見ているに違いない。

しかし、真実をいうと、カナ入力での「。」は「る」と同じキーに割り当てられていて、シフトで切り替えるようになっている。左手小指のシフトアップのタイミングが「。」のキーに間に合わないと、そのまま「る」となって送信されてしまうのである。

このミスのやっかいなところは。「です」とか「ます」という敬語文がすべて「でする」「まする」などと、中途半端に意味が通ることばになってしまうことだ。しかも丁寧語を使うべき相手に対して。

「おまえはおサムライさんか!」
なんて叱られそうなケースが過去にも多々あったが、
「灰、わかりました」
よりかは、高度なミスではないかと、すこし自負しているところもある。

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生きる力 オヤジのパワー

今日、久々に川合俊彰氏と会った。

川合氏は麻布十番「萬力屋」の社長であり、つい昨年末にビル建設のために閉店となった「紅虎餃子十番店」の社長でもある。そしてまた私と縁深き「ゆめしや」の社長であったりもする。

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△ ライカを見て「それはなんだ?」という川合氏。中延商店街にて

昨年紅虎をクローズし、今年中にはゆめしやをクローズせざるを得ないという。
中小企業経営は、なかなか大変なのである。彼にとっては踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂である。(他人事ではないが)

しかし、男45歳、そう簡単にはつぶれませんぜ・・と中年パワーを炸裂される川合氏。
そのエネルギーの源泉は、酒か?カラオケか?それとも女なのか??
とにかくカッコいいのである。こういう頼りがいのある男はファザコン気味のキャバクラ嬢などにはかなりモテるに違いない。川合氏がキャバクラ通いをしているという噂はまったく聞かないが・・。

日本を支えてきた「昭和の力」は、平成になっても、一部のオヤジ世代の中には健在である。
かっこつけるのもいいけれど、そういう力を、すこしはデジタル業界の僕たちも学んでゆきたい。

これがオヤジのパワーである。それが日本の力である・・・・のかな??

しばらく多忙で遠のいていたが、残された数ヶ月間、"ゆめし"を喰らいに青山に行こうっと。

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新しく手に入れた古いレンズ

ライカの古いズミタールレンズは、すっかりいまのお気に入りになってしまった。
これまで生意気に広角ばかり使っていたけど、いまではすっかり虜である。(購入価格34000円)


ボケ味のよいレンズは、だれが中心かをしっかりと表現してくれる。
50mmというよりの視点とその組み合わせが楽しくてしょうがない。

もっと明るいレンズがあれば、と築地の帰りに銀座のカメラ屋に寄ったら、これまたキャノンの50mmF1.4というのがあって、昭和三十年代のシロモノだけれど曇りが少ないしというので衝動買いしてしまった。32000円。

古いレンズはいいなぁ。安いし個体差が面白いし、デジタルライカをもって探す楽しみができた。

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この貼り紙の真意

Sign

大森の繁華街に貼ってあるこの貼り紙。
二階にあるスナックらしき店の壁にあった。(撮影は昨夜)
なんとなく言いたいことはわかるようで、でも本当はなんと書きたかったのだろう?

1.客引きしないので
2.客引きいやなので
3.客引き中なので

2と3では大きく意味が違う、ということになり、けっきょく怖さが勝って、僕らは店に入ることが出来ずじまいだった・・・。

謎は深まるばかりだ。

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日本語について

今日は連載再開の件で毎日新聞さんをおとずれた。明日は、午後から幻冬舎さんと単行本の打ち合わせ。すこし毎日に余裕が戻ってきて、自分を立て直す意味でも、「文字の世界」にすこし戻りたいと思っているのかも知れない。

文字を書くというのは、なかなかやりがいがある仕事で、僕は好きなのである。だからいろいろと引き受けてしまう。いや、提案してしまう。

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シーマンというゲームをてがけるようになってから、「ことば」にすごくうるさくなった、と自分でも思う。

僕がはじめて物書きを始めたのは、27歳か28歳のことだ。
サラリーマンをしながらマックの雑誌に連載をはじめた頃。

自分の書いたものが印刷された最初の号が届いたときは、緊張で身が震えたものだ。
女性が美しくなるのと同じで、自分の文章がたくさんの人の目に触れるようになると、完成度にこだわるようになる。

やがでその媒体はすごしづつ新聞のコラムだのAERAだのDIMEだのといったメジャーな雑誌に移り、やがては単行本などを出すようになっていった。かつては憧れたような雑誌に原稿を依頼されても、いまではあまり緊張せずにささと書いてしまう自分がある。それは自分がまともになったからだ、とついぞ思いがちだけど、実は逆に不安になることがある。最近いちばんその不安を感じたのが、シーマン2の仕事をしているときであった。

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シーマンということばあそびのゲーム、ことば表現の作品としてよくよく考えればじつに大仕事である。

シーマンという"媒体"、これは雑誌でもラジオでもない、新種の発話する膨大のセリフの集合構造体である。そこに、音声認識やら、分岐やら、DB参照やらと、一見複雑なな枠組みがはいっているが、仕組みはどうであれ、結果としてことばで表現する、という点では詩の朗読とおなじである。

この仕事をしているとプログラムという工業技術にまぎれて自分の文章のスタイルが安定しないまま、分不相応なステージにまで来てしまっているのではないかと不安になることがある。開発チームには、ことばを専門とする人間がひとりもいないので、僕はプログラマーという集団の中での異分子のように孤立して悩むことになる。

コンピューター業界の人間というのは、ことばに無関心だ。
ことばというのは曖昧さをふんだんに内包した、あくまで暫定的な伝達手法であって、それらを排除した数学的なコミュニケーション言語はプログラムコードしかない、と思っているふしも多少はある。だが、コード表現においてけっして秀逸とはいえない若手ですら、ことばをとても邪険に扱いがちだから、ときどき、安じてしまう。

「痛快の一撃!! 相手に深刻なダメージをあたえた」といった、お約束の文章に近ければすべていいと思っているのかもしれない。
だから開発チームが書いたプログラム内メッセージも結局、直してもらうことになる。

マニュアルやチラシのちょっとした文章であっても、いいかげんなものを見ると、すぐに正したくなる。そんな自分は、どんどんと頑固者になっているのかな、とふと我を振り返ることがある。

そんなときには、「ことば」に固執している表現者と出会いたくなる。ライターではなくて、表現者、と。

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今日ようやく、先日買った佐野元春のCafeBohemiaのボックスを開いた。
ジャケットのモノクロ写真がかっこよくて、衝動買いしたものだ。
佐野元春といえば、懐メロ的だけど、歌詞が「詩」であることをあきらめずに楽曲創作をしてきた人という印象がある。

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だから彼の詞は、日本の無垢でつくられた家具のように、重くて堅い。意味不明の幼稚な英語でごまかさずに、いちいち意味がある。聞いてあらためてなかなか良かった。

ボックスに付属のDVDを見ていて、アレン・ギンズバーグの話が出てきた。ギンズバーグはアメリカの詩人で、ビートニクス世代の象徴。公民権運動が盛んだった頃には、ことばの力をしんじて詩を詠みながらあちこちを行脚していた人だ。

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詩というのは、少ない文字数で、相手に解釈させて完成させる余地をどれだけ持たせられるか、にその力があるとおもう。相手が参加して完成させるという点で、説明過多な文章よりもよっぽど説得力がある。ビデオに対するインタラクティブのあり方と似ている。

「そいつ、まじムカついた」
「そーなんだ」
「だってむかつかない?」
「微妙・・」
「うそ!?なんで?」
「だっていちいちむかついてたらうざくならない?」
「ならない。っていうかふつー。」
「まじ?」

読んでも意味不明なこういうギャル会話ってのは、否定する貴兄が多いが、実は省略されているだけであって、日本語に無頓着だとはぜんぜんおもわないのである。口語とはそういうものだ。立派な先生の講演録を読んでも、口語というのは字にすると意味不明なものだ。ニュアンスで語るという点で、音楽に近い。

むしろ、"自分は日本語をマスターしている"、と誤認していて、実のところは人間が誤解なく理解可能な文をまったく書けない人間が多いのがゲーム業界である。文字で書かれる文章までが口語なのである。

相手が参加して完成する、というゲーム本来の姿が参加の余地を狭め映画に近くなる一方で、そこに表記される文章が逆に会話のように省略されてきている、という皮肉な状況。これは、業界関係者の表現力の低下であり、かつ品質の劣化である、と思う。

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ご無沙汰しております

最近、更新が遅れ気味です。

理由は、例によって、ちょっとドタバタしていたからです。

ドタバタに乗じて(?)、古いライカレンズを入手しました。
マルベル堂のブロマイドみたいにボケ味の聞いたレトロ写真をとりたくてのことです。
1950年代の沈胴式の50mmレンズです。
いままで広角しかもっていなかったので、とてもうれしいです。

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ちなみに沈胴式のレンズはライカのM8には入らない、という噂は嘘です。
しっかりと使えます。

最新デジタルカメラで、Photoshopなんかではつくりだせないボケ味の効いた写真をとるのもなかなかいいものです。

今月のトップ写真はこのSummitar50mmで撮ったものです。