斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
フォトアルバム

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突然の来客

うちのチーム会議は、いろいろなハプニングが起こる。

この日、議題が予期せず複雑な方向へと進んでしまい、途方にくれて外の景色をボーっと眺めていたら、とつぜん何かが窓の外をよぎった。

「あれ?」とビビッてしばらく見ていたのだが何もおきない。

「もしかして神か!?」
アイデアに煮詰まったときに、たまに神様が降りてきてくれることは以前に書いたのだけれど、いま降りてきてくれたらこんなにありがたいタイミングはない。

待つとはなしに眺めてたら、ただのガラス清掃の人だった。

思わず写真をとったのだけれど、その写真がなんどみても違和感がある。二度吹き出してしまった。

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こういう笑えるイベントがいたるところから飛び込んでくるから、会議ってのは楽しかったりもする。

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F川君おつかれさま

今日でF川君が契約満了でプロジェクトを去ります。おつかれさまでした。

昨日、ちょっとした打ち合わせで顔を合わせたとき、F川君が、「斎藤さん、僕、明日までなんですよ。いろいろとお世話になったので」と照れくさそうに、包装された品をもってきた。包装をあけるとそれは、素朴な木製の筆箱だった。うれしかった分、今日という日を忘れていた自分が恥ずかしかった。

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F君は、なぜ僕に筆箱を選んだんだろう?
そんなことを考えながら、唐突にこの筆箱に彼のサインをお願いをした。

彼はしばらくびっくりした様子だったが自分の席にしばらくもどり、そして「めちゃくちゃ緊張しました」といいながら、サインペンでなまえと日付を書いた筆箱をふたたび持ってきた。

これで、世界で一つのSpecial Editionになった。
F川君、ありがとう。

たとえそれがエルメスのバッグであったとしてもまったく緊張せずにサインできるデザイナーになってください。あなたのサインがエルメスバッグの価値をさらに押し上げるんだ、という自信が、それを可能にするのだと思います。

またどこかで仕事をご一緒しましょう。
筆箱は、大切に使わせてもらいます。

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分解能力

別府の猿山のベテラン飼育係によれば、猿の鳴き声には、40もの種類があるという。そしてそれぞれにしっかりとした意味があるという。

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●猿の鳴き声はいくつある!?

この「40」という数字は、このベテランの飼育係の方の分解能力による成果である。
私たちではまったく区別のつかない音群が、ある日誰かが40という数字で定義できる、と発見すると、人類の識別能力は大きく前進する。それぞれに名前をつけることで、さらにそれは進む。それまで誰もが耳にしていた音が言語として再出現するからである。

世の中に混沌と存在する音をドレミファソラシドに半音をくわえた12の音色として定義した人は、かなり偉い。それ以外の音は、この12の音にオクターブ違い、としたことで、どんな音も数字のような桁上がり構造で記述できる。

そのおかげで、人間は音符をかくことが可能になった。バッハやモーツァルトといったテープレコーダーもない時代の中世の作曲家の作品をいまでも再現することができるのだから。

もうひとつ大きなことは、人が音を支配できるようになったことだ。弦を半分の長さにすれば1オクターブ高い音を確実に作り出すことが出来、そりによって人は「演奏」をすることができるようになったわけである。それまで受動的に接してきた音を、計算によってつくり出されるようになったのだから。

つまり言語化というのは、漠とした森羅万象を、特殊な才能なしで利用可能にすることを指すのだと思う。

たとえば猿の鳴き声が、ひとたび番号区分されると、聞き分けることの出来ない人でも、「ききわける訓練」を始めることが出来る。バイエルのレッスンのように、1年生は15番まで、2年生は30番まで、3年生は難易度の高い40番までを習得する、などというカリキュラムを組むことさえ可能だ。そうしながら未知なるものを克服することができる。それこそが人類の文明のプロセスそのものである。

一方で、「おれはそもそも鳴き声の違いを聞き分けるぜ」という人も、それまでは曖昧模糊としていた全体が40で構成されていると定義されれば、認識結果を記号化することができる。

音色や香り、雰囲気、といった情報は、そもそも明確に記憶することがむずかしい。その理由はひとえに記述言語がないからである。曖昧な印象というのは、文字通り吹けばかき消されてしまう。特殊な能力がない限り、それらを長期にわたって記憶し続けることはできない。番号としてならば、曖昧さが排除され情報を半永久的に記憶することができるわけだ。これこそがデジタル情報化の黎明である。

さて、この40という数字の信憑性はいかがなものか、という話がある。
人によっては30で事足りる、というかもしれないし、100はある、という人もいるかもしれない。

●いくつで切り取るか

猿の鳴き声をいくつの音で切り取るか、これは、音をいくつの音階で切り取るか、と同じようなことである。12よりもすくない数で定義すると雅楽のような音階になるし、アラジンの音楽みたいにアラビアンにもなる。これは正否、ではなく、特徴ということになる。重要なことは、それぞれの解釈が完結して閉じていることである。

あたらしい分野をゲーム化しようとすると、まず最初は、その世界を分解誌、識別番号をつけることからはじめなければならない。しかも、その番号は,トランプのカードと同様、有限でなければならない。その切り取り方はクリエーターに依存する。

獏とした現実を、いくつの区分で切り取るか、それが言語の特徴となるし、ゲームであればその特性を決定する。エスキモーの言語には「雪」に当たる言葉が数十あるという事実も、日本語では魚の名前が多いことも、あるいは英語には牛にあたる言葉が複数あることも、すべて同じ理由によるものだとおもう。

●記述の方法

猿の泣き声の例に戻って、さて、番号をふったはいいが、じっさいの泣き声をひらがなで記述しようとおもっても、おそらくすべて「キャー」「ギャー」のどちらかになってしまうことだろう。

ひらがなでは猿の音声を記述することはできないという話である。それくらい人間の言語というのは音に貧弱である。トランプでマージャンをしようと思っても牌の数がすくなすくでできない、のと似ている。

コレは、1が3で割り切れないのに、一つのケーキを三等分できるという矛盾と似て、言語の限界というやつだ。
言語というのは万能ではない。だからこそ、あたらしい分野に対しては、それにふさわしいあたらしい言語体系をつくりだす必要がある。

あたらしい分野のゲームに取り組もうとすると、いつも苦労するのはここである。
40という種類で定義し開発してきた「さるなきトークソフト」だが、ある日、さらにあたらしい鳴き音があることが判明した、という時の迷いとでもいいましょうか・・・。

そんな日を僕は、いや僕たちは、いま送っている。

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どちらかの雑誌編集者さんへ

あの、どちらの雑誌の方でもいいのですが、11月下旬発売の「ライカ M8」の紹介記事のライターをお探しの方はいませんでしょうか?

一日もはやく、このカメラを触りたくてうずうずしているのである。12mm 15mm 21mm 28mm 35mm レンズは、ひととおりこの日のために(?)準備してきた。

分野はちがえどカーグラフィックTVで毎週々々世界の車に試乗してきた松任谷正隆氏というのは、実にめぐまれた人だなぁと思う。うらやましい。

どちからの雑誌の編集者さん、もしお探しでしたら、ぜひお声がけくださいませんでしょうか?喜んで、引き受けさせていただきたい者がココに一人おりますので。ただし発売前までに、となりますので、週刊誌か、ネットということになると思いますが・・。

どうぞご検討ください。

P.S

人間、モノ乞いをする時は、ですます口調になるものである。たとえそれが自分のBLOGであったとしても・・・。ああ、あざとい・・。

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慣れない事

今月末発売の雑誌「ゲーテ」の見本誌がオフィスに届いていた。
この号では、山田吾郎さんとの短い対談が掲載されている。

僕は、この対談当日、めずらしくネクタイを締めていった。
ずいぶんとネクタイをしめていない生活が続いていたので、前日に日本橋高島屋に妻と赴き、上から下まで新調した次第である。

だが掲載された写真の自分は、やはりネクタイが似合っていない。というか、緩んだタイが曲がったまま写っているではないか。しかも顔が酔っている。ああ、かっこわるい・・。
「普段着でいいですよ」と編集部からいわれていたのにもかかわらず、慣れないことをすると、こうなる。

山田吾郎氏は、噺家のようなべらんめぇ口調の愉快な人だった。そこに本物のヘネシーが出されていた(このコーナーはヘネシーのタイアップ広告ページである)。ヘネシーは、よく飲む酒で、つまり"飲む条件"がその場にはすべて揃っていたわけである。氏の話にあいづちをうちながら、僕は日中からXOをぐびぐびと飲んでしまった。そしてうっかり途中で、慣れないタイを緩めてしまいそのまま掲載・・・となった次第である。

慣れないことは、やはりすべきでない。痛感である。
酔った私の姿をご覧になりたい方は、ゲーテ12月号を本屋で立ち読みしてどうそ笑ってやっていただきたい。

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ゲームクリエーターになりたい人のために

ゲームクリエーターになりたい人、というのは、今どき、どれくらいいるのだろうか?
かつては、小学生の人気職種だったゲームクリエーター。ホリエモン旋風のあとにITとか、デジタルとかから若者は興味をうしなってしまいつつあるのだろうか?

ゲームクリエーター関連の専門学校関係者にいいたいことがある。
あなたたちは、とても重要な科目を生徒たちに課すことを忘れている。
それは、「仕事とはなにか」という、考え方の授業である。
私が日々仕事をしているビバリウムという会社は、ただでさえ中小企業なのに、その上前例のないタイトルを企画制作する会社だから、毎日の会議が、若い人に対しての「授業」のようなものである。

教師である僕の日々は、だから、その日の授業を考えることから始まる。参考にするものがあまりないから、新作の製作を進めるという行為は、苦悩の日々でもあり、スタッフたちの成長を見守る行為でもある。愛すべきスタッフたちから逆に教わることも多々ある。

そんな中で、教えることに時間を費やしたくない科目というのがある。それこそが、「仕事とはなにか」という基礎的なこと。仕事でこの職種に従事する以上、女の子がアイドル歌手に憧れるのとは違う、仕事としての心構え。それを専門学校が伝えなければ、どこも教えるところがなくなってしまう。

たしかに大学は、「仕事の心がまえ」なんてことは授業では教えない。だけれど、彼らはOB訪問とか、就職活動とか、あるいは偏差値競争の中でそれをうけいれる体質を身につけてきている。しかし無菌培養の生徒が多い専門学校にはそういった課外活動がない。専門職のスキルを身につけさせるのが専門学校という機関の使命だとすれば、やはり授業でそれをしっかりとおしえなければいけない。生徒たちもあこがれのCGツールの操作法だけでなく、イロハのイが、授業にはいっているか、おしえられる講師がいるのか、それを学校の選択条件に組み入れることをおすすめする。でないと、専門学校経営者が見栄えのいいパンフレット作りにばかり精を出す時代に歯止めがかからない。

ゲームをつくっている現場の情報をリアルタイムに見せることが出来たら、おそらくは若い人が想像していることとはまったく異なる切り口の情報を、ゲームの魅力とともに伝えることができるにちがいない、とよく思うことがある。でも残念なことにそれは僕たちには許されない。僕たちが商用クリエーターである以上、業務機密を途中で開示することができないからだ。「そろそろ開示していいですよ」という発売タイミングを待たなければならないのが歯がゆくてしょうがない。

ほぼ日刊イトイ新聞、に、幾度となく断続的にこういった連載を過去してきたのたけど、そろそろ、そしていよいよ、また再開させていただくことになりそうだ。これはつまり、新作発表の時期が近づいていることを意味している。

それは、自分にとってもうれしい時期の到来であるとともに、厳しいセールス競争の時期が訪れたことを意味している。

新作のメイキングを書く時期というのは、だから、いつも胃潰瘍がひどく痛む時期と重なる。

この胃潰瘍をすこしでも癒してくれる要因になるのであれば、つまり専門学校を出たての生徒たちがすこしでも早く現場の戦力になってくれるのであれば、僕は喜んで専門学校の講師を引き受けるだろう。

そういう学校があれば、の話だが。

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日曜日には散髪を

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晴れた日曜日には、風通しのよい散髪屋で髪を切ってもらいたい。

耳元ではシャカシャカという静かな鋏の音とともに髪は切られ、清潔なナイロンの上にボソっと小さな音を立てて落ちる。その音があまりに心地よいので、僕はいつしか眠りへと落ちる。

ふと気がつくと、顔剃りへと作業は移り、磨いだナイフがじょりじょりと顔を撫でる。暖かいシェービングフォームとともに古い髭が取り去られ、久々に露出した毛穴が秋風にさらされると、いつになく頬が敏感になる。

顔も心もさっぱりと仕上がる頃には家族が迎えにきている。
時計は午後4時をすこしまわっている。
「おとうさん、男前になったね」なんて鏡越しにいう姿をみて、僕はにやけて代金を払う。
そして家族らとみんなして夕食の買い物がてらの帰路につく・・。

そんな生活がしてみたい。

(写真は今年6月にローマ市内で撮影したもの)

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らしくないもの

T氏夫妻から万年筆のプレゼントがオフィスに届いた。

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このクロス製のシルバーは、自分では買わないタイプのものだ。ある意味かなり新鮮である。

書き味も、自分が選ぶウォーターマンのペン先とはまったく違う、万年筆らしい羽根型ペン式。これまで僕が選んできたのは、たてよこの差が出ないペン先。だが今回のものはまさに「文字を書く」ためのものだ。

まだ新しいぶんペン先に水分がのこっていて、たてよこの太さの違い書きに半透明なインクの濃淡が加わる。するとそこに、独特な味のある字が現れる。いわゆる「万年筆の字」である。ちょっとうれしかった。

自分が選ぶものというのは、いつも同じようなものになってしまう。おなじ遺伝子が選ぶのだからしょうがないと思っている。だけど遺伝子を受け継がせるのはなにも子孫だけではない。未来の自分もその対象である。

人からのプレゼントというのは、それまでの自分からすこし変わるきっかけだったりする。遺伝子をちょっとちがうものへと組み換える役割りがある。遺伝子組み換えのメッセージ、なんてまさに「誕生日」にふさわしいメッセージかも。

もしかしたら、誕生日ってのは、古くなった自分の遺伝子を組みかえるためのイベントなのかもしれない、残された未来の自分のために。

だったら、これからは「その人らしいプレゼント」を選ばないようにしよう。

「未来のその人」、への架け橋を考えるようにしよう。

そしてその人のあたらしい遺伝子の一部になってしまおう。

もしそこまでいけたら本望である。

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お誕生日おめでとう!!

斉藤由多加さん、お誕生日おめでとうございます!!

これからもいい歳のとり方をしてください。

P.S今日で何歳になったのですか?

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ライカM8

今日の内覧会で、初めてM8を手にすることができた。

手にしたライカのデジタルは、ずっしりと重かった。
シャッターは、自動チャージで連写も可能だが、「シャカッ!!」という写真をとった感触が特有の振動とともにしっかりと残る。電子音ではなくたしかな機械音。

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△バッテリーを忘れたので、携帯電話の内臓カメラでとりました

液晶はおもったよりも明るく見やすかった。ライカMシリーズで撮影した画像がすぐに液晶表示されるのは、とても不思議な感覚である。「ライカでとった画像をそのまま見ちゃっていいの?」とか、「ライカのMシリーズで連写できていいのか?」という、不思議な感覚だけが残る・・・。

RD-1は、デジタルにアナログ感覚をもたらすことに注力したマシンである。手動のシャッターチャージしかり、アナログメーターしかり、いい意味でのノスタルジーであり大人のおもちゃである。便利、というよりマニアック。

しかしM8は、むしろそれと180度異なり、アナログ感を残すのではなく、機械式のライカをストレートにハイテクに応用した感覚がある。どうぞ、仕事でも使ってください、といった感じ。つまり、デジタル便利機能がついたライカカメラ、という印象がする。「遊び心」なんてものはそこにはない。機械式カメラメーカーが実直にデジタル化してみました、という仕様感。

遊び心のRD-1と比べると「おまいら、俺たちを冷やかしてんじゃねえぞ」という声が聞こえてきそうでもある。

首から古いMをぶら下げたドイツの人らしきお客さんが、手馴れたしぐさでこのM8を触っていた。茶色のズボンと開襟シャツ(?)、ふるい腕時計に革のバンド、といういでたちのこの初老の方は、なぜだか一番店でこのM8が似合っていた。説明会に本社からわざわざ来たという、これまたドイツのライカ社員となにやら話す姿が、かなり粋だった。

とにかく不思議な体験だった。
こんなレアな場に呼んでくださったライカに感謝である。

買うことになるんだろうなぁ・・。でも高いなぁ。