斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
フォトアルバム

« 2006年8 月 | メイン | 2006年10 月 »

|

ゲームのスコア

僕たちは、何をするにも、「スコア」を頭の中に思い描いている、と思う。

仕事で無理してがんばれているのも、渋滞で車を運転し続けていられるのも、クラブ活動のきつい朝錬を続けられるのも、みなそこに「スコア」があるから、である。

人によってこのスコアがすこしづつ違うし、そうであるべきだ。これが現実であり、ゲームとの違いである。誰もが同一のスコアを目指している状態というのは、見ていてあきらかに不健全であるし、まさに「ゲーム的」と形容される。人はみな自分なりのスコアをもっているから世の中は成り立っていられるのかもしれない。

そんな「自分だけのスコア」、ってのは、どうやら年代とともに変化するもののようだ。
テトリスの攻略のしかたが年齢によって変化するのと同じである。(かつての僕は一発逆転をねらうのがテトリスの楽しみだった。最近は「継続」である)

人を動かすこの「スコア」が、何かの拍子に、がらっと変わってしまうと、人は一瞬、行き場を失い、そして行き先を変える行動に出るものだ。「スコア」というのはそれくらい人間の行動を変える力を持っている。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆

出張中のホテルで、全米ポーカーチャンピオン大会なるものを中継で見た。
全米を勝ち抜いてきた強者達がラスベガスに結集し、トーナメント形式で賭けポーカーを競うのである。
この大会のスコアは、つまりそこにかけられているのは、当然ながら本物のお金である。いうまでもなく、このお金は主催者が用意した類のものではなく、自分の私財である。賭けられているものが自分の私財でなかったら、この大会で試されるものはまったく違うものになってしまう。

だから大会は真剣そのものである。テレビカメラとて邪魔は許されない。

この番組をホテルで眺めていたときに、大変なことを発見した。
賭けポーカーというのは、ポーカーとは違うゲームである、ということを。

ポーカーは持ち札が強い者が必ず勝つ。しかし賭けポーカーはそうではない。時として弱い手の者でも勝つことができる。いわゆるハッタリ、である。掛け金を吊り上げてゆくことで、恐怖心が生まれ、心が弱い者は脱落してゆく。 だから、そこに、「読みあい」という名の駆け引きが出現する。カードの手札はあくまで二次的な材料であり、フロントにあるものは「プレイヤーの性格」である。

つまりおなじゲームのようでありながら、ポーカーと賭けポーカーはまったく異なるゲームとして存在する。その違いは「スコアリング」の違いである。この違いは人を夢中にさせ、そして破滅させる力を持った麻薬性の有無へとつながる。

このエネルギーの源泉は、何か?
それは、カードの材質でもなければ、テーブルの品質でもない。
人間の精神的強弱の競い合いである。そのふちの向こうには地獄がぱっくりと口を開けて待っている。そこに落ちないように自分の運命をコントロールする技を、人は競い合う。

単なる運試しのゲームが、スコアをすこし変えただけで、実力を試すものに変貌するのである。

ゲームショー2006ではたくさんのゲーム機とタイトルが発表された。
しかし、これからゲームクリエーターが社会から試されるのは、カードの材質でもなければ、テーブルの品質でもない。

|

プランナーの拠り所

人間、どんなに想像力が豊かであっても、人というのは複数で企画をすすめてゆくには「拠り所」が必要になる。

無限にある音の中から人間は12の音だけをピックアップした。作曲家は、この12という音符を拠り所に作曲をする。あるいはギターコードのような簡易的な音楽展開のライブラリーを利用する。

ゲームは何を拠り所にするか、というと、RPGであれば、セリフ入りの物語である。それを軸とし、そこにグラフィック、そして音、を肉付けする形でゲーム作りは進んでゆく。

アドベンチャーでは、それがマップとなるであろう。開発スタッフは企画者の描いたマップのスケッチを拠り所として全体像を理解してゆくことになる。

では、セリフや物語のまったくない、たとえば「テトリス」では何を軸にするか、となると、物語にあたるものがない。いや、実はあるのだけれど、プログラム言語以外に記述する方法がない。何がどうおきるか、をことばで朗々と書き連ねたところで、それはゲームがおこす現象を描いたものであってゲームの構造を記述ものではない。

この「拠り所」がないゲームというのは、開発チーム内で統一のイメージを持つことが困難である。

☆     ☆     ☆

シーマン1は、セリフにあわせて表情をつけてゆくという手法をとっていたのだけれど、それは大きなまちがえだったということに、最近(シーマン2がメインとする自律型キャラ)になって気づいたはなしをする。

人間の表情で一番重要なのは、実は、セリフとセリフの間の空白である。 魚のキャラクターでは、セリフとセリフの間もただ水中に浮かんでいればいいから、さして目立つことがなかったこの「間」。だけれど重力に逆らって立っているキャラクターだとそうはいかない。待っている間イライラしたり、もう片方に足に体重移動をしたり、腕を組んだり、飽きて関係ない方向をみたり、といった表情がないと、何をしているのか、まるで壊れたロボットのように見えてしまう。だから、このセリフのない空間、に表情をつけることになるのだが、それこそが、前後関係のないシミュレーションならではのやっかいさである。スタッフは真っ白な台本に対して作業をするようなものなのだから。

固定的な物語があるわけもないのが「シミュレーション」の特徴である。その仕様書というのはというのは、セリフがまったくないパントマイムの、しかもアドリブ進行の台本のようなものである。なにをどの順番で書けばいいのか譜面にあたるものが存在しない分野というのは、なかなかやっかいである。

|

TGS最終日の日曜

昨晩から徹夜である。
納期へのストレスから胃潰瘍がひどく痛む。徹夜をすると胃が荒れるというけれど、僕の場合は逆である。仕事が進むと精神が安定するから胃潰瘍にはいいのである。

朝8時過ぎ、まだ終わりきっていない仕様稿をUSBメモリーに保存しもそもそとパソコンから離れる。カーテンを開けると、外は雲のない秋晴れの日曜日だ。
涼しく、気持ちが良く、そして懐かしい匂いの風が部屋の中へと入ってくる。

風呂に入って髭を剃ると気分もだいぶ落ち着いた。

「通知不可能」と表示された着信が9時前に携帯にあった。
相手はGameSpotの編集長のカート・フェルドマン氏。
E3やGDCのコーディネイターとして過去何度か僕をパネラーとして招いてくれた方である。カートはゲーム業界を見つめる人格者、という感じの人かな。

「大丈夫?起きてるよね?」
電話の声は穏やかにそういった。音質がやけにクリアだ。

国際電話の生取材が1時間後に予定されている。ライブで配信されるというけれど、肝心の僕がちゃんと準備できているか、その確認である。クリエーターというのは、どの国でもあまり信用されていないようだ(笑)

昨日も一昨日も電話番号の確認などでかかってきたところをみると、どうやらGameSpot側ではちょっとした大イベントのようだ。忘れていたわけじゃないけれど、なにかを準備していたわけでもない・・・。どんなことを聞かれるんだろうか?

実は、昨日・今日と娘の学校の文化祭でもある。
ESSに所属する娘は今日も舞台の上でミュージカルを演じることになっている。
題目は「アラジン」で、セリフは全員、英語である。

娘よ、君ほど日々の努力をしていないが、父もいまから英語スピーチの本番だよ。

がんばろっと。

そして、そのあとは、髪を切りにいこう、こんなに気持ちのいい日曜日なのだから。

|

日本の皆さんは友だち

Imgp2125

幕張メッセで開催されている「大北京原人展」のサブタイトルは、「日本の皆さんは友だち。」である。
写真をみてわかるとおり、このタイポグラフィーは、日本人観光客相手のハワイの土産店の看板をまねたものだ。そのためにわざとギクシャクしたフォントと字間でつくった。日本人が直感的に抱く警戒心と違和感。それが、このロシアからの売り込みという、これまた怪しげな設定とあいまって、独特のいかがわしさという異臭を放っていてなかなかよい。英語の注釈では  Japanese people are our best custmers(日本人は最高の客です)とした。かなり人を食ったようなコピーである。

こういういかがわしいノリのイタズラが僕はたまらなくすきで、何歳になっても、いや歳を重ねれば重ねるほど、チャレンジ精神が旺盛になっている。

肝心の展示だが、そもそも発売までとうぶん時間があるこの時期、ゲームを見せることはできない。というか、ゲームは画面を見せればいいというものではない。生のイベントでユーザーが欲しているのは、平面的な画面ではなくて、作品の質感である。
一点突破で、「北京原人の見世物小屋」というコンセプトでいくことにした。どてかい建築物の中に本に小さな小屋をつくり、そこで原人をみせる。手法としては立体のジオラマの上に3Dホログラフィーを、という希望は、いにしえのマジックミラーをジオラマ上に投影することでほぼ同様の効果を得ることができた。粘り強く手を尽くしてくれた乃村工芸さんには感謝である。

そして、今回の目玉の一つといえるのが、このビデオである。ナレーションは日本を代表する名優、宝田明氏。最初から宝田さん以外にいない、と決めていたので、お引き受けいただけたと聞いたときには、飛び上がらんばかりの気持ちだった。MA当日は張り切る僕に、すばらしい演技とともに何度でもお付き合いいただけたので、最高のビデオが完成した。

このビデオに不可欠なアートワークと、プロダクションデザイン、は、すべて高橋晃くん。Yes,Mama OK?の金剛地くんのパートナーであり、彼もまた天才的なセンスを持ちあわせたデザイナーである。DC版シーマンのアメリカ向けに使用したイラストは彼の手によるものだ。

いつもビデオを制作するときは、脚本から演出までベタで張り付くんだけど、今回は高橋君が参加してくれるとなったので、安心して任せることができた。とても助かった。無理を引き受けてくださった制作プロダクションの方々も、楽しんで徹夜いただけたと聞いて、うれしい限りだ。企画者冥利に尽きる。

月岡一郎教授、としてご挨拶いただいているのは、ご本人だが、職業は造形のアーチストで、今回の見世物小屋ジオラマを制作していただいた方だ。
こぎれいな展示会において、生き物特有の"臭い"のリアリティへを出したいと思い、原人の見世物小屋の隅に「キムコ」をいれることにした。そのキムコは旧式の三角形のタイプの手配がつかず、同氏のご自宅の冷蔵庫に偶然あったものを無理いって寄付いただいた。

Imgp2107 Imgp2111_1 Imgp2112 Imgp2133 Imgp2169

なにはともあれ、このばかばかしいイベントに、おどろくべき敏腕スタッフが結集した。
だから最高のできである。

シーマンは、常にこうでなければならない、のである。

|

北京原人 in 東京ゲームショー2006

Imgp2111 今日から東京ゲームショーだ。
本来関係者はビジネスデーとよばれる初日に会場に足を運ぶのが通例であるけれど、僕はいけないので会場にいるスタッフからの連絡を聞いている状態。

「シーマンのブース、すごいことになっていますよ」
興奮気味のIクンから電話が入った。
くわしくはここでは書かないけれど、ほっとした。
僕の企画は、へんてこなものばかりなので、大空振りしやしないか、正直ヒヤヒヤだったのである。

すこし、気が落ち着いた。
地味な日々の中で、こういうニュースは貴重な心の栄養源である。

|

第12回 マーケティング

「自分の事業において、あなたは"マーケティング調査"をしていますか?」
そんな質問をされた時、僕は何と答えるだろう?

「いいえ、なにもしていません」
それが一番正直な答えだ。

「では、なぜあなたたちは"ヒットを狙っている"といえるのですか? その根拠は?」
そう質問されると、ほぼ困窮する。答えが見つからない。

「なぜ、何の根拠もないのに、何億円というリスクを冒してまで新作を開発しているのですか? 失敗したときに借金を返すあてがあるのですか?」

・・・これは、時々夢に出てくる裁判のシーンだ。

僕は、市場調査などというものをしない。なにもせずに、新作ゲームの企画をしてきている。ファミ通や業界雑誌などに一切目を通すこともほとんどなく、この大命題に対し丸腰で、つまりひたすら自分の中だけで答えを出そうとしてきた。うちの会社はよくも今までつぶれずに来たものだ、と思う。

僕の中では、"マーケティング調査"というのは、誰かを説得するための材料以外のものではない。 僕はもしかしたら必要以上に、そういったものから目を背けているのかもしれないけれどね。要するに、人と違っていたい、という欲求が不要に強いのだろう。こんな自分は経営者としてはどうなんだろう、と疑念を持つほどだ。

だが、マーケティング調査結果がいかに有力な情報であったとしても、幸か不幸か僕には説得すべき相手がいない。自営業者の強みも弱みも、その一言に尽きる。叱ってくれる人がいない代わりに、承認する人もいない。失敗したらただ倒産するだけである。つまりそこには説得という概念はまったく不要なのである。おのずと、おもしろい、と自分で思えるものだけを信じるようになりそれ以外の材料にはないと思っている。こうだから頑固者が多くなるのである、この手のポジションの人には・・。

しかし、さらにそこを除いたとして僕はどう考えているか、を正直に告白するとそれでも、"マーケティングをした"からといって魅力的なゲームの企画は発想できないと思っている。いや、ゲームに限らず、魅力的な商品というのが果たして考え付けるのだろうか? と、かなり斜に見ている。じつのところ、マーケティングというのは、客を馬鹿にしたような考えとしてみているふしが僕にはあるのだ。「大衆ってのは、こうすれば、いつも喜ぶんだ! これが常套パターンだよ。」なんて話を聞けば聞くほどね。

*****************************

この週末、ずっと「ビートルズ」のベスト盤をかけて車を運転してた。
後期のベスト盤(ブルージャケ版)に、「へルター・スケルター」が入っていないことに30年たってはじめて気がついた。

「へルター・スケルター」という曲は、ビートルズ作品の中でもおそらく一番カッコいいナンバーのひとつである。好きなライブハウスで唯一プレイされるビートルズ・ナンバーだ。

「ベスト盤」の定義にはいろいろな意味があるが、一般的にはセールス成績の良かった曲を集めたもの、ということになる。

セールス成績がよい、を言い換えると、「たくさんの人がよいと思った」、ということである。つまり多数決である。「へルター・スケルター」はカルトな曲なので、「イエスタデイ」や「ヘイジュード」ほど支持されていないのだろうが、ライブステージでビートルズ・ナンバーを経験した人であればダントツにかなりカッコいいライブナンバーであることがわかる・・・・(シャロン・テート)殺人事件のきっかけになった、といういわくつきだから、あまり言い過ぎるとマニアック、と片付けられてしまうけれど・・。

話は戻るが、セールス成績を「よい」の定義にしてしまうと、多数決だから、英語圏の曲が日本語曲よりも必ずいい、という結果が出る。英語に共鳴する人口の方が圧倒的に多い、という事実が、セールス成績をバックアップする。

同様に、ゲームでは、プレステ2のタイトルのほうが同クラスのGameCubeのそれよりもぜったいにいい、という結果が生まれる。

そういったさまざまな要素が絡み合って、多数決は形成される。
じゃ、売れる要素を集めればいい作品になるのか?
Noだよ、やはり。

この週末のゲームショーで、僕らはひさびさの新作を発表する。
このゲームは「北京原人育成キット」というサブタイトルがついたものだ。
この手の話をすると、「北京原人を育てたいマーケットってどれくらいだ?」という話をしたがる人がかならず現れるものだ。そんなマーケットがあるはずがない。ぜんせんないから、目を付けたんじゃないか。

エンターテイメントに限らず新商品の企画というのはカタルシスを伴う仕事だ。つまり自己実現のカタルシス。なぜカタルシスがあるかというと、そこに、ほかに頼るものが何もないからだ。自分だけを信じるからカタルシスというのであって、アンケート結果にそう現れているのであれば、商品開発のプロセスに「人間」が介在する必要などなくなってしまう。そうなるとコンピューターが商品を開発できることになる。

              ☆    ☆    ☆

発想した人間と同じようなセンスをもちあわせた人がとれだけいるか、それによってセールス成績はある程度決まる。同類の人口が多い人もいれば、少ない人もいる。血液型ようなものだ。

僕の血液型はAB型、いわゆるマイノリティーだ。マーケットに例えると、サイズは全体の10%、A型のわずか1/4だ。だから共鳴してくれるパイは小さい。

パイの小さいAB型の僕がなるだけ多くの共感を得るためにすることは、メジャーのA型に近づくことではなく"ABらしさ"を思い切り炸裂させること、だと思う。それこそが最良の手立てだし、自己実現のカタルシスである。それが、「ヒットしてうれしい」の定義だ。

新製品をつくるということとは、つまり新分野をつくること、鶏口牛後、なのである。

|

過去からのメッセージ

誰かと初めて会ったとき。
どんな人でも、その人への印象と出会ったときのシチュエーションがある。だけれど、そんなものは時とともにどんどんと薄れてゆくものだ。自分との関係が作られてゆくうちに、もともとは誰の紹介だったのか、なんて記憶は消滅してしまう。

ためしに、いま周囲にいる身近な知人を思い出してみる。身近な人ほど、そもそもどうやって出会ったのか、なんて覚えていない。第一心象というのも、第二、第三、そしてそれにつづく何百の印象に上書きされてしまっている。

彼らはそもそも、ある日に、誰かの紹介で出会っているはずだ。紹介者が個人とは限らないけれどね。でもそんな記録を書き留めておくことはしごく稀な人であって、自分とは無縁のことだと思っていた。

今日、携帯に、すごく久々の人から着信があった。
表示された名前を見て、我ながらびっくりした。
「あのときに、番号をもらってたんだ・・・」
当時、二度と連絡をとると思っていなかったからだろう、その表示名には、本人の名前と、紹介者、そしてその関係が単語で羅列してあった。

携帯電話の登録名というのは、人との初対面(あるいは二度目かもしれないが)した当時の痕跡である。いいかえると、そこに書かれた情報は、過去の自分自身の姿である。
そういう情報があるならば、時間の経過とともに、着信が、楽しくなる。だから、これからはすこしだけ登録名を工夫して入力することにしようと思った。
第一印象とか、場所とか、をひとこと入れるようにね。

そういえば、出会い日を登録名の一部として入れるホステスがいる。
名前を見ればおのずと、その客との付き合いの長さがわかるしくみだ。
恋人同士でもそんなことはしないだろう。いや、むしろ恋人関係というのは結果論だ。発展したときには時間が経過している。人は未知に向かって生きているから、スタートからいちいち出会いなど大切にしないものだ。

デジタルはいつでもダイナミックに変化するのが特徴だ。そんな世界にいる過去を保管しておくことが苦手になってくる。常に変化している人間にとって、変化せずにい続けるものはうっとおしいく思えるものだ。

でも携帯電話の登録名というのは、時間が経過するほどにどんどんと新鮮度を増す。そう、人と出会ったばかりの自分の痕跡、そして過去の自分からのメッセージである。

ちなみに、僕は母との初対面の日を知っている、その瞬間を記憶しちゃいないけどね。
ちなみにその日は、「誕生日」という名前で、運転免許証に刻み込まれている。
なもんだから、誕生日を記録するという人類の社会習慣に、すこしだけ感謝しているのである。だって、誕生日を知っていることのメリットなんて、それくらいしかないのだから・・。人間以外の動物にとっては、ね。

|

最適化

翻訳された海外の本は、分厚いという印象がある。原書は一冊なのに日本語版は上下二冊、であることがとても多い。どんなに著名な翻訳家が訳したものでも、読み手としての印象はどうも表現がまどろこしくてテンボがつかめない。原著作はきっとすばらしいにちがいないのに、と残念に思う。洋書ってのはそういうものだ。

ゲーム移植の話をしていて、日本語を訳したものも、きっと同じように見られているのだ、と思った。英語を日本語に訳すと長くなる、という話をどこかで読んだことがあるが、僕の経験でいうと、どちらも訳されれば互いに原文より長くなる、と思っている。

これは会話もそうで、だから同時通訳というのは追いつくのに大変だ。表現者というのは、美しく短く言いたいものだ。それを翻訳する側からいうと、どうしたって原文より長くなるのは当たり前である。言語論的に常に最適化したコードを書きたいプログラマーにしてみると、こんな話はしごく当然の話かもしれない。

「タクシー」という言葉、「コンピューター」という言葉、もはや日本語になっているからいいが、翻訳が必要な時代だったら何て言うんだろう?きっとうざくて読んでられないと思う。そういう言葉がいまだに大多数なのだから読んでてうざいのは当然だ。

逆も可なりで、学ラン姿を思い浮かべる「応援団員」を、チアリーダーと訳しただけでは、どうもニュアンスが違うとなる。だから翻訳家はいろいろと苦労をすることになる。その結果翻訳文は長くなる。

「一言でいうならぱ奴は、ウナギと穴子の区別がつかない寿司職人だ。奴が区別できるといったらせいぜいどじょうくらいのものでさ」という文章。僕たちからすればとんでもない寿司職人ということがうかがわれるが、この文を英語に翻訳したらどんな文章になるのだろう。
すでにその翻訳文はテンポを失い、あるいはその意図を失っている。いずれにしても長くなっている。これが、冒頭のまどろこしさの原因だと思う。
映画をゲームにした作品も、ゲームを小説にした作品も、英語を日本語に翻訳した詩集も、原著作が優れていればいるほど、翻訳・移植後されたものは説明がテンポがうざく思えるのである。

オプティマイズ、という言葉がある。昨今のデジタル文化ではよく使われる言葉で「最適化する」という意味によく使われる。
僕もこの文章でつかっている「うざい」という言葉。辞書では何と説明することになるのだろうか?
説明過多にならないように表現をオプティマイズして、最短の表現方法をとろうとする表現者の習性は、読者の想像力がそれを補い各自にフィットしたイメージを持つことを期待してのことだ。翻訳者にはそれを勝手に言い換える自由が与えられていない。

幸いプログラム言語では、コードを解釈するのはコンパイラー(=コンピューター)の仕事であり、そこに「解釈」の余地はいっさい残されていない。ユーザーが見るのは結果でしかないから、結果が同じでありさえすれば、最適化するためのコード表現に文句をいう者はいない。文句の対象となるのは、ゲーム表現そのものである。「うざいゲーム」というのは作者の言いたいことがゲーム性として最適化表現できていないことに起因する。

どうやったら、さくさくとしたゲーム作品がつくれるか。僕はいま、頭の中にあるイメージと自問自答しながらこのことと格闘している、のだと思う。

|

背景知識

最近、キリスト教世界にもとづくファンタジーがヒットしています。

そういう影響もあってか、キリスト教世界を背景にしたような和製のファンタジーもの、というのもアニメ、ゲームをとわず制作が絶えないですね。

僕は、どうしてそういう世界ものを作らないかといいますと、自分が知らないから、なんですね。欧米では水や空気のようになっている基本的な知識というものを、僕たちはまったく知らない。そんな文化圏の人間が、見よう見まねで世界観をつくったところで、「ちゃんちゃら可笑しいぜ」となっちゃうから。

僕の家に聖書世界に関する本が何冊あるか数えたことがないけど、普通の人よりははるかに多いと思う。それでも、どれだけ読んでも、やはりわからないです。子供の頃から生活に溶け込んできたものは、そうでない者が本で知識として学んでも、及ばないものだ。

たとえばね、聖書に出てくる聖人の名ってのは、英語圏の人にとってみれば、どこにでもいる名前なんですよね。
だからヨハネとパウロを、英語ではジョンとポールって普通に呼ぶですよ。というよりもそう呼ぶ以外に呼び方が、ない。日本語の外来語にあたる言葉じゃないから。
だからビートルズはとてもありがたい人たちのバンドだったんですね。

そうやって聖人の名前を列挙してみたら
ヤコブはジェームス、ペテロはピーター、トマスはトーマス、マタイはマシュー、アンデレはアンドリュー、ピリポはフィリップ、ミハエルはマイケル・・なんだ、知ってるミュージシャン、みんな聖人の名前なんじゃん、ってことになる。

似た話でこんな話がある。
かつて大ファンだった、KISSというバンドのジーン・シモンズ氏とニューヨークで食事をしたことがある。そしたら突然、
「おれ、ユダヤ人だからさ、アメリカで成功するために努力してきたんだよね。」とごく普通にいわれたのを鮮明に記憶している。どうリアクションすべきかに困った。

世界の経済はユダヤ系富豪に占められている、などとメディアによく書かれているが、じゃそのユダヤ系の人というのがどういう人でどう区別つくのか、となると、僕らはぜんぜんわからない。

アメリカの知人にそのことを聞いたら、「だいたいは苗字でわかるじゃん」といわれた。
「苗字?ぜんぜん、わからないよ!?」
「たとえば、XXXXバーグ、ってのはだいたいそうだよ。たがらスピルバーグって名はユダヤ系の苗字さ。なんというか、常識だよ」
というので、「へぇー、知らなかった。シンドラーのリスト制作で公表したのかと思ってた」
といったら、「変わってるねえ。」と逆感心されてしまった。

わからないよ、そんなの僕らに。英語の授業で教わるでもなし。

                 ☆       ☆

昨日はオールナイトで「うどん」と「ゲド戦記」を二本続けてみた。
「うどん」はユースケ・サンタマリア演じるコースケがニューヨークのスタンダップコメディに挫折するシーンから始まる。「言葉の壁」ってやつである。でもさ、僕ら日本人が海外で困るのは、実は言葉なんかじゃない、こういう背景なんだと思う。ここに気づかないと、NOVAが儲かるだけで何も変わらないと思うなぁ。

「ゲド戦記」は、美しい作品だったけどすこしわかりにくかったかなぁ。よし原作を読んでみよう。わかりにくさの原因が演出のせいなのか、あるいはもしかしたらこういう「背景」のせいなのか、とても興味があるので。

日本は、いろいろな国の言葉がそのまま入ってくるからさ、その背景にある関連付けの意味もわからないまま、だ。英語では文法は教えるけどその背景知識は教えてくれない。

たとえばボブやロブがロバートの愛称だったり、ビルやウィルの正式名称がウィリアムだったり、リズやベスがエリザベスを指す、といった常識的な略称を知らないと、親近感を現すための映画の呼称セリフが、まるで別人を指しているものと勘違いしてしまう。サスペンスものを見てて必要以上にややこしいのはそのためだ。

映画「セブン」でブラッドピット演じる掲示は、七つの大罪を調査するために、インテリのノンキャリア刑事であるモルガン・フリーマンに、「失楽園」や「(ダンテの)神曲」「カンタベリー物語」などを読むように勧められるシーンがある。
しかし、ブラピ演じる若手刑事以上に僕らはわかっていないのである、何故にこれらの本が犯人と関連付けられるのか、という常識的な背景知識がないからね。

何でこんなことを考えていたのかというと、実は、かつてシーマンの英語版ってのがあって、米国でも話題になったのだけど、じつは作るのが大変だった。ローカライズというよりも作り直しだった。日本語の背景知識をもっていない国には、訳しても意味を成さないのである。たとえば
「おまえ、血液型Bなんだ、どおりで、わがままだとおもった」
なんてセリフは、血液型占いがない国では、まったく意味不明だ。
ましてや、ホステスを職業にしている人への
「同伴はとれているのか? 指名はどうだ?」
なんて失笑を誘うセリフをそのまま訳したところで、ジョークにすらならない。彼らにはその意味がさっぱり意味不明なのである、たとえ正確に訳したところでね。

ローカライズというのは、難しい。
日本からヒットを飛ばすというのはとても難しい構造がここにある。

そういえば、「ルパン三世」ってさ、怪盗アルセーヌ・ルパンの孫ってことになっているけど、そもそも三世ってのはファーストネームにつくものだよ、エドワード三世、みたいに。
由緒正しい貴族は父親とおなじ名を名乗るという風習があるからね。

日本人を夢中にさせた傑作アニメも、母国の人がみたら「なんだ、それ!?」って思われてんだろうね。

|

第11回 退職の方法

独立するにあたり、まず最初にあるハードルは、ほかでもない、いまの会社からの「退職」である。
「退職」には、「退」というネガティブな字がはいっているから、ともすると必要悪のように思いがちだけど、実はすでに「独立」という建設的な行為の重要な一部である、という話をしようと思う。

これまで中小企業をやってきて、社長という立場からこの「退職」をどう見てきたかというと、長年つきあってきた社員の人柄を一番思い知る瞬間といいかえられる。いってみれば退職時に、退職者への印象と、その人物との今後の関係のほぼすべてが決まるといえる。つまり、独立する者にとっても見送る側にとっても、退職のしかたというのはとても大切な、ある意味、儀式的瞬間である。

よく、腹いせに辞表をたたきつけてやる、とか、慰留する、しない、といった光景があるけど、それは退職ではなく、退職より前の話である。退職というのは、すべての意思が決まり、あとはその日にいたるまでの数週間、人によっては数ヶ月、をさしている。

経験的に見てて、退職は、ふたつに分けられる。
ひとつは、誠意をもって残務を整理して辞めてゆく人。もうひとつは、まるで逃げるようにすべてを放り出してやめてゆく人。

これからも仕事で付き合っていこう、と思うのは、いうまでもなく前者である。後者のパターンはほぼ例外なく絶縁関係となる。仮に忘れたころに転職先の会社から「こんな案件があるのですが、やりませんか」などといった連絡が来たとしても、「迷惑をかけるだけかけておいて、いまさらなに都合のいいことを言ってんだ」と誰からも相手にされないものだ。

だから、独立するときにまず心がけなければならないのは、よいやめ方をするということである、と思う。

有給消化、という言葉がある。
辞表を出した翌日から休みに入り、退職日に唐突に挨拶と荷物引き上げをかねて顔を出す、というケースがこれにあたる。取引先でも時々見かける。職種にもよるけれど、引継ぎや後始末をしっかりとしないと、周囲のものからは、つくりあげてきた仕事の秩序を破壊するような行為にとられる可能性がある。

直接利害関係のない社外取引先の立場からどう見えるか、という話をすると、やはり社内と同様、それなりに無責任に映るものだ。とくに退職する、というのは噂になりやすいから、いろいろな人の無責任な印象がそこに付加される。印象というのはあとがこわいものだ。

そうなると本人は後でかならず損する。そもそも独立するときは、ひとりでも味方が多いほうがいい。だから「せっかくの有給はとっておかないと損だ」という考え方は、独立時に当てはめるべきではないと経験的には思う。有給というのは、在職中にとるから有給なんだから。

ということで、独立を考えている皆さん、有給消化なんて行為はやめてサービス退職を心がけましょう。いいじゃん、最後は営業プロモーション出勤だと思えば。きっちりと最後まで勤め上げることほど自分の誠意を周囲にアピールする機会はほかにないんだから。

業界というのは狭いもので、一度仕事をした人は、どこかでかならず、また出会う。仕事先で出会わなくてもパーティー会場とか飲み屋で偶然出会う。そのとき、声をかけやすいか、それとも気まずいか、が大きなチャンスの分岐になったりする。その分かれ道というのは、退職時のほんのちょっとした印象で決まったりする。

だから、退職時というのは、「逃げるようにやめた」といわれないようにしたほうがいい。「かっこいいやめ方」を目指したほうがいい。

かくいう僕も大企業から独立したことがある。かっこよくはなかったけど、最後は消化有給なんて一切とらずひたすら自分の仕事の後始末をしたのである。もちろん、独立したらいやというほどヒマがある、という安心感もあったからなのだげど、とにかく「せめて辞めるときだけは」と決めていた。

そしたら、数年後に、「フェロー」というとても名誉な肩書きをその会社からもらうことになった。そのおかげで、今でもその会社の人たちは快く迎え入れてくれる。そんなことってあるんだな、といまにして思う。自分のときは、偶然そういうやめ方になったからよかったけど、これから独立する人には、確実に、必然的に、よい関係になってほしいから、こうして言葉にしておこうと思った次第である。