斉藤由多加 (Yoot Saito)
さいとうゆたか
 

東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定 
 使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など

株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。
フォトアルバム

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ヨーロッパ版が届いた!!

会社にヨーロッパ版の製品版が届いた。

パッケージは日本のものとぜんせん異なるが、マニュアルは観音開き仕様までもが日本語版を尊重してくれているのでTクンもSクンもうれしいに違いない。

右の水墨画は、唐の時代の蓬莱山伝説を描いたもの。龍が握っているのが「大玉」といわれる。左は、合戦で景虎が鳴らす陣太鼓を描いたものといわれる。

観音扉を開くと、本丸までの道のりが描かれている。山口晃さんに描いていただいたものだ。

これらヨーロッパ版は横書きですが、実は日本語版に封入される大玉のマニュアルは「縦書き」である。
任天堂始まって以来初の仕様だそうだ。
これは、「初モノ」を狙いたくてやったなどという不純な動機で作られたわけではない。世界観も原稿も最初から縦書きを前提に書いたので自然な成り行きだった。

観音開きの案は製造コストを理由に一度は却下されたが、そのままデザインをTクン(別のコーナーに登場いただいてます)に進めてもらい、ラフができたところで再度任天さんに見てもらった。案の定「おもしろいですね、これ」と担当のKクンから柔軟な意見が帰ってきたので実現することができた。もちろんこんな仕様も「初モノ」である。「いいものはいい」といってもらえる信頼関係がすでにできあがりつつあったのだろうね。そのおかげでこのプロジェクトはずいぶんと助けられたと思う。

といったように大玉プロジェクトは、いろいろな「初」がある。
でも、くれぐれも誤解がないように。ただ奇をてらってやっきたわけではない。そんなものがすいすいと通るほど任天堂は甘くはない。ここら辺は、僕の場合誤解されやすいところです。任天さんに限らず社会というのは、味方をつくらないと物事は決して進まないものだ。そのためには
明確な理由説明と、
それに対する情熱と、
そして共有された目標、

この三つがないと味方というものはできないし、つまり企画は進んでいかない。だから大玉プロジェクトの「初」はスタッフ合意の上での「初」である。だから意味が大きい。そしてうれしい。

「大玉」というのは、実のところ「バカゲー」である(笑)。企画段階から全関係者にとってそれは明らかであった。大玉という作品の完成度は笑いの量で測ってきた。
ゲーテという雑誌にすでに公開されているのでカミングアウトしてしまうが、ラスト近くに任天堂の本社ビルを舞台にする隠しマップがある。そこから飛び出してくる仕事着姿の社員を大玉で拿捕し戦場に駆出すマップである。画面内に任天堂本社がでてくるゲームも初であろう。よくもこんなとんでもない作品にーOK出してくれたな、と思うと感慨深い。
ばかばかしいゲームを、しかもくそまじめに演出しよう、というセンスに任天堂さんの若手の社員が一緒になって共鳴してくれたことに対して、とても感謝している。

そんな思いが象徴されているのが、このマニュアルの観音開きである。だからなんだかとてもうれしいのである。


ティザーCM

今日から、大玉のCMがはじまった。
ティザーとよばれる第一弾は、テーマ曲のCold and Boldと、シルエット(僕はシルエットがすきなんだ)だけのものだ。

どの局の何時にオンエアされるのかわからないけど、

http://www.odama.jp/download/index.html

で見れます。

おたのしみに。

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Are you married?

ここのところ自分のアナログ回帰が激しいことに気づく。
たとえばカメラ。
カメラコーナーでライカを手にとっては、その機械式シャッターの振動を愛でている。
銀塩カメラに手を出してしまうと、とことんまでいってしまいそうで、かろうじてデジタルに踏みとどまっている。

聞くところによるとライカマニアというのは、とにかく一台では満足できないようだ。
ライカが好きでたまらないという人のエッセイがたくさん出ていて、どの人もあれやこれやとポケモンカードのように買ったり売ったりの繰り返しだ。

僕もそうだった。これまで相当量のIT機器類に手を出してきた。過去10年間で購入したノートパソコンはいったい何台になるのだろう? iPodだけ数えても6台になる。(贈答は除く)

最近そんな僕の中に芽生えてきた自分への疑問。それは「なぜ、すきだとたくさん集めたがるのだろう? すぐに新しいものをほしがってしまうのだろう?本当にすきならば、ひとつのものをずっと使えないものなのだろうか?」ということ。

ひとつ、あった。ここのところずっと愛用しているものが写真の「リエゾン」というウォーターマンの黒い万年筆である。4年半ほど前に銀座のITOYAで購入したものである。パソコン画面ではなくMOLESKINEの手帳にこのペンでアイデアを書き留めることが多くなった。

実はこれも一度はさらに高級なエドソンという金とサファイアブルーの2トーンのモデルを買い足したことがある。
女性にたとえるならば最高級の美人。
そのうち古いリエゾンが疎ましく思えてきたので欲しいというSさんにプレゼントをした。
しかし新しい美人は突然と姿を消した。もう使い慣れたペンがないと仕事ができなくなっていた私は無理を言ってSさんに古い万年筆を返してもらった。
日々は経過し、そのうちもういちどあの金とサファイアの美人をもう一度手にしたくなり、ふたたびこの美人を所有することになった。そしてまた美人は突然姿を消した。
ふたたび仕事ができない。古い万年筆に切り替える。
そんなことを繰り返しているうちに、この黒い万年筆がなんともいとおしくなってきた。
出入りが激しい仕事なので、ときどきこのリエゾンは姿を消す。でもそういうときは、浮気をせずに出てくるまで待った。
半年ものあいだ行方不明だったとき、それでもひょっこり喪服の内ポケットからでてきた。
尻に挿したまま運転していたらキャップが割れたこともある。でも10日後にはピカピカのキャップとともに修理されて帰ってきた。

そんなことが繰り返されるうち、「このペンは、なくなっても必ず戻ってくる」という意味のない自信が出てきた。モノと人間の間に奇妙な信頼関係がうまれるものだ。

ひとつのものを大切に使い続けるというのは容易なことではない。
でも、古びれた万年筆やカメラを自慢できるオヤジになりたいと思うようになった。

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神になりたかった人

下原真澄さんは十番近隣のフリーの植木屋さんである。
この季節は仕事が暇だそうで、電気工事とか弊社の引越し手伝いなどのアルバイトで凌いでいるというが、一番の収入源はパチスロのようだ。

この人物、パチスロで3日間で70万円稼いだという。で、その金で何を思ったか自費出版で本を出した。

『ラブコール』というこの本が傑作で、『愛とはなにか?』という遠大なテーマに単身で取り組んだ。だがこの本、どう読んでも旧約聖書のぱくりなのである。

先週の日曜日にドライブで沼津にいったときのスナップがこれ。(撮影はRICOHのGRだぜ!!) ポーズも決まったなかなかいい男っぷりである。そのぶん時々映画やテレビのエキストラの声がかかるが、自前の衣装でさっそうと登場するわりには本番によわく、1月にも、なんとかいうゴールデンタイムのエキストラ出演に付き添ったのですが、あがり症でオンエアでは登場シーンはほとんどカットされていた。

「十番はかわった人が多くて面白いな」というのが口癖だが、下原さん、あなたが一番かわってますから。

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富岡君という人

富岡クンという人物。職業はグラフィックデザイナーでOPenBooK当時Tower2の頃から「シーマン」シリーズを経て、そして「大玉」のマニュアル類をお願いしている人です。付き合いは96年か97年からですから、かれこれ10年近い。写真は2000年の6月のものですから、これもかれこれ6年前のものになります。

この人と付き合うと自分が成長できるような気がしてときどき仕事をお願いしております。どう成長できそうかといいますと、彼は僕の度量を無意識に試そうとしかけてくるのです、いろいろな手口で。だから彼と仕事をすると自分の大人としての限界値がどれだけ変化したかよくわかる。というか、変化していないことが思い知らされるわけです。

リスクをとる、とか、リスクを犯す、という言い方はあるが、リスクをつるく、という人はそういない。それを無意識にするというのが彼の面白いところで、JAZZのインプロビゼーションのように予期せずして彼は仕掛けてくるのである。こちらの技術がそれにきちんと答えられないとそれまでの少年のような笑顔が豹変し、まるで下町の盛り場で喧嘩を売っているべらんめぇのオヤジのように、台風をよぷ人。

それを感じたのは新宿で飲んでる時のことでした。夜の新宿を酔って歩いて、自分より強そうな人と肩をぶつけていく人です。つまり自分でわざとリスクをつくって、恐怖の淵を覗こうとするのである。

村上ポン太さんがテレビでいってたけど、むしゃくしゃするときにはわざと歌舞伎町で喧嘩を売るんだそうな。で、ぼこぼこにやられてまた奮起する。相手がプロであればあるほど手加減を知っているから殺さないので安心、なそうな。

彼もそういう人のような気がする。思い返せばすべてこのパターンであることに気づかされるわけです。
きっとそういう試練を乗り越えられた人物とは、さらにうまい酒を彼は酌み交わし、そして互いの絆は深まってゆく、そういう人生の中間テストを出題しているのではないか、と。僕も生き方は下手だと自覚しているのだが、彼はそんな僕にある意味で自信をくれる。悪い意味ではなくてね。

結婚して「奥さんは大変だね」、とおそらく100人くらいの人からいわれているのではないか、と思うのですが、実は奥さんであるなおちゃんは彼よりもずっと頭のいい人で、ひそやかに彼のそういうところを面白がっているのではないか、と思うのです。

子供が大きくなったら、「手の焼けるオヤジだ」と飲み屋まで迎えに来てくれるような娘さんになるといいね。

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芸術は「選択だ!」

今日は新作タイトルのテレビCMMAだった。
超低予算で
CMをつくるのはしんどいけど、タレント不在な分企画に依存することになるのでプランナーとしては試されるようで楽しい。

出来は「満足」です。スタッフに感謝である。

スタジオ作業の待ち時間を利用してCGを制作してくれたT氏とともにMAルームを抜け出した。僕はR-D1を、T氏はロシアのアナログカメラを、それぞれ片手に赤坂見附の街を撮りまくった。ここのところT氏とは、カメラ談義で盛り上がっている。いまの僕の目標は、T氏に本格的なカメラを買わすことだ。

そういえば18日の土曜に、NHKが木村伊兵衛氏の特集をやっていた。いかに被写体に警戒されないように近づくか。以下にその場の空気となって自然な場を引き出すか、というテーマである。映画監督が演出家だとすれば、写真家は非演出家ということだろうかねぇ・・。

スタジオで進行しているCM映像ではすべてが作りこまれたCGだ、と思うと不思議な気分になる。自分がカメラでぱちぱちと撮っているのはすべて偶発的にそこに発生している風景にすぎないんだから。

そもそも風景というのは自分のコントロール外にあるものだ。だから風景と呼ぶのだろう。それを撮影して「作品」と呼んでしまうのは、つまり、その風景の作者となってしてしまうのはどういうことを意味するだろうか?なんてね。人工物をつくっている者としては、まるで偶然の産物を自分の産物にしてしまっている気がしないでもない。

この話を過去にH氏にしたことがある。

「いや、その光景を選んだ、という最大の行為があるのだ」

という文句を放った氏は、プロのジャーナリストである。

選曲家という職業がある。曲は第三者の作品であって選曲家はそこに何も介在してはいない。でも数ある中から特定の曲を選ぶことで自己表現が可能である。

過去から膨大な曲数が存在する世の中である。わざわざユニークな曲を書くことよりも、すでにある曲を組み合わせることの方が多彩な表現ができる気がしなくもない。ただし、「表現」となるためにはその対象が無数にある場合に限られるように思うのたがね。

一方で、ゲームというのは、トランプでもマージャンでも牌の数は既知でかつ有限である。それらを組み合わせたって「役」にはなっても「表現」にはならないわけで、やはり表現というのは無数とか無限でなければ、選ぶ行為の意味が薄れるわけだ。

そんなことを考えながらMAは無事終了し車を走らせていたら、車窓の外に、うららかな日差しの中で戯れる見事なまでの親子の姿をみかけた。とっさにカメラを出そうとした2秒ほどの間に、その決定的な瞬間はもう失せていた。

「きっと名作がとれていたな」と、その残像だけが自分のあたまの中を巡る中、思った。「目の中にカメラがあればいいのに」そう思った。しかもハードディスクのおっかけ再生機能のように、すでに録画されている、というのがいいな、とも思った。
もしこの瞬間を切り取ることに成功し、この親子の姿が名作として世に出たとしたら
?この写真の作者は、僕ということになるのだろうか?いやむしろこの親子自身がこの幸せな風景の一番の作者ではないのだろうか?

音楽は12個の音符で、シェイクスピアは26のアルファベットで表現されている。100×100ドットの順列組み合わせでできた写真の中には、モナリザからマリオまですべてをこの組み合わせのひとつとして含んである。ということは、写真もCGも選択なのかな?

表現というのは「作る」といいながら、実は膨大な組み合わせの中から何かを「選びとる」ことを意味するのかもしれない。

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LEICAの新入り

カメラ、に凝り始めて困っている。だって支出の際限がないもの。かろうじてデジタルカメラにとどまっているけど、フィルムの世界に足を踏み入れたらたぶん財産をくいつぶすくらいいっちゃうかもいれません。

さてさて、昨日ようやく届いたのがこのパナソニック製『ライカ』です。

28mm広角と4倍の光学ズームがよくて買いました。パナソニックブランドのものにすりゃ5万程度で買えるものを、わざわざLEICAブランドを探しての79000円です。まったく同一商品なのですが、素人なのでLEICAの赤いブランドに弱い。

今日は報道カメラマンの森口さんと、西麻布のモンスーンカフェで、さっそくこれを巡って緊急会議。

「なかなかいいな、これ」と本気で言い始める森口さんはプロっぼくなくていい。プロなんてだいたい悪口しかいわないからさ。等身大でなかなかよい先生であります。

つい先月にRICOHのGRを買ってしまった手前、『ズームがいい』とはいまさらいい難いのですが(これについては次回詳しく話します)、ズームつきのこのLECIAで79000円の出費を取り戻すぞ。

写真作品を仕事に使うことばかりを考えている今日この頃であります。

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人間関係の1ラウンド

写真のパネライの置時計がお気に入りだ。実はこの時計が『お気に入り』になるまでに、結構なエネルギーと時間がかかった。


そもそもは、このモデルの中古と新品が新橋のドンキホーテで並んでいるところからことからこの話は始まる。どちらも美品なので迷うことなく安い中古を買った。買ったところがあれよあれよと狂うので、差額を払って高い新品に取り替えてもらったのである。
この時計、あまりに見事に狂うので、三日目にすぐに電話した。返品をうける店としても、テストだ、確認だ、と時間と手間がかかり何度も新橋に足を運ぶことになった。誠意ある対応には感謝しているが。

それにしても時計というのは実にやっかいだ。
なにせ店頭でいくら見ても不具合がまったくわからない。

精巧なほど、狂いが判明するまでに時間を要する。今回のように一日5分狂う時計ならまだしも、日差20秒だとそうはいかない。一ヶ月して「これは・・」とわかったころにはもうクレームなんて聞き入れてもらえないだろうしね。高価な自動巻きであれば、数ヶ月つかってはじめてわかってくるから始末がわるい。

ま、一日は23時間59分なしがしというくらいで、完全な時計なんて存在しえないわけで、最後は、「じゃ、どこまでなら許せる」なんて話になってくる。

で人間関係もそれに似ている。
僕は基本的に人間関係が苦手だ。
考えが似ている、気が合う、そういう人ってのは、時計と一緒で、お互いのズレがわかるようになるまで何年もかかるわけである。それがつらい。

これが人間関係の1ラウンドとするなら、合わない人というのは1ラウンドがとても短くてすむ。パーティー会場で紹介されただけで、「あわないな」とすぐわかる。実はあとになつて、「最初はすっごい印象わるかったんだけど・・」などとフィアンセを紹介するケースが多いんだけどね。

で、やっかいなのは1ラウンドが長い場合だ。
同棲するようになって、あるいは一緒に仕事をはじめて、しばらくたったあたりにようやくわかってくるというパターン。

人間関係ってさ、狂っているのが自分か相手か、わからないのがみそ。
消耗すると、逃げたくなる。「人間づきあいはだから嫌い」、と言い切ってしまえば楽だ。楽だけど、「とまっている時計が一番正確だよ、だって一日に一度、かならずぴったりと合うんだから。」、と吹いているような、そんなむなしさがある。自分を振り返るとね、『自分もなんとか正確になりたい」、とあがいているから人間なのですね。とまっている時計は自分の時間をもっていないんだもん。死んだも同然よ。

そうでも考えないと、プロデューサーはやってられないですな。
だって実も知らない人をある日突然採用して制作の現場をやってくんですからね。

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名前入りDSだ

無事ほかの2色も発売となったNintendoDSなので、もう告白してもいい時期かと思うのであるが、名前入りのDSをN社さんから先週いただいていたのである。みなさん、申しあけありません。先に謝ってしまおう。

実は最近このBlogをうちのスタッフも見ているので、本件はスタッフ会議で先に報告し、「すまん」と謝っておいた。
本心から申し訳なく思う。

と思っていたら、スタッフのT君は、はやくも徹夜並びで一台DSを入手したという。11日の収録日にこれみよがしにオフィスに持ってきている姿を見て、うっかり「えらいな、おまえ」などと言ってしまった。自分でいうのも何だが、「えらい」ってのはどういう意味なんだろ??
で、下の写真。

開いた写真ではなく閉じた写真を掲載したのは、このピカピカ具合を彼が誇らしげにしていたから。内側は指紋だらけだった(笑)。

そんなこんなで今日日曜日は小春日和で気持ちがいい。午後は沼津にいってきたのだが、午前中はカメラの不良交換でビック有楽町店に。そしたらはやくもこんな看板が立っているではないか。

ちなみにこの看板って、N社の費用でつくるのだろうか?それとも販売店がつくるのだろうか?
まいずれにしてもゲーム業界にこういう景気がいい風が吹くのを見るのは久ひざで気持ちがいい。
任天堂さん、ファンたちのためにはやく在庫を間に合わせてあげてくださいね。(いいわけでした)

次回は、もっとレアなGameBoyの写真をみせてあげましょう。お楽しみに。

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大玉の完成パーティーの模様

8日は京都で任天堂側のスタッフの方々と、打ち上げだふ。といってもあくまで打ち合わせのついでであります。東京組は私一人だけの参加です。

そういえば、昨年の10月の大玉の完成パーティーに皆さんきてくださってありがとう。写真だれがもってるんだろう?
僕がもっているものは少しだけですが、いい笑顔の写真が多いので、掲載しておきますね。関係者以外の方は無断転載ということで。

誕生日が近かったので、私の誕生パーティーもかねさせていただきました。


こちらが、岡安さんはじめスタジオフェイクさんの若手の方々です。基本的な開発部分はすべて岡安さんのところにお願いしてたいそう助けていただきました。まつけんサンバをライブバンドをバックに披露。すてきな笑顔です。

社員のメンバーからいただきました。社員からいただくものが、実は世界で一番ありがたい、ということを社員はきっと知らないに違いない。

このケーキを発注するのに、どうやらいろいろと社内的にトラブルがあったとあとで聞きました。でもうれしいものはうれしいよ。

あ、これは、雑誌社さんからです。御子柴さんが手配してくれたのかな?ま、いずれにしてもすべてオフレコ、ということで参加してくださいました。ありがとさんでした。

こちらは、わたくしでございます。
いろいろな意味で顔に疲れが出ています。

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依存する権利

今日の会議で、メンバーに妙な話をした。
「所有していない者の権利」という話。

**********以下たとえ話******

飛行機代払うから一緒にロスいかない?
「ほんとすか?」
「ああ。」
「タダならいきます!!」

そして二人は搭乗し、太平洋上にさしかかったあたりで機内食の時間となる。男は両方の機内食をパッとかすめ取って一言。
「これはあげない」
「な、なにすんですか!?」
「機内食を二食たべたかったから僕は君を誘ったんだよ。そのために航空運賃を二人分払ったのさ。だから食事は僕のものなんだ。俺が代金を払ってんだからさ。」
「だめですよ、これは僕の食事なんだから」
「いいや僕のだよ。」
そういって男は二食目のメインディッシュまで口をつけてあとはゴミとして下げてしまう。
険悪でやりきれない雰囲気・・。

代金を払ってもらった目の前のラーメン。そのチャーシューだけもっていかれたら、合法的にドロボーされたようなやり場のない怒りにとらわれる。

長年かわいがって気た犬が、突然あらわれた実の所有者に連れて行かれた時も、ある日最愛の恋人に「さよなら」と一方的に出て行かれた時も、近隣の環境が突然の再開発で激変してしまった時も、はたまたマックのCPUが突然インテル製になってしまった時も同じような感覚になる。そこに依存して生きてた自分には何の権利も主張できないのか?とね。そういう時のわだかまりって、どうやって主張したらいいんだろう?どうやって定義できるんだろう?所有権ってなんだろう?

世界のトラブルってのは、実はみな、この定義できない、主張できないわだかまりに起因していることに気づいた。所有権というのは、物質からつくった考え方。モノを中心につくられた今の法律ってのは、人間のほんのごく一部しか定められていない、しかし世界最強の権利。これは不思議だ・・。